河端ジュン一が、お仕事以外で作った小説などを載せています。

顔を描けない美大生の話(完結)

2021年8月3日  2021年8月7日 

「今回の課題のテーマが何だったか、答えてもらえるかしら、宇和島みづきさん」

「人物画です」

「そのとおり。まじめなきみが間違えるはずはないよね」

「把握はしています」

「ではどうして、こうなったの」

「こう、と言いますと」

「顔がないじゃない」

 私はしぶしぶ、見たくもないキャンバスに目を向ける。タイトルは『母』。文字通り、私の母の写真をもとに描き起こした人物画だ。

 アルキド樹脂絵具で描かれた発色のいいネルシャツにまず目がいく。ペイルトーンの抽象的な背景も悪くない。だが、顔がない。目、鼻、口、耳、髪の一本さえ描かれていない。安価のマネキンみたいな楕円と、目鼻の位置にアタリをつけるための十字線があるだけだ。

 私は早生(わせ)先生に視線を戻す。すうと息を吸い、ため息に聞こえないよう注意して吐いた。

「描けないんです」

「人物画が苦手なの? それでも描かなくちゃ上手くならないよ」

「苦手とか、そういうことではなくて」

「じゃあ、なに」

 どう言ったらいいものか。少し考えてはみたけれど結局私は、

「いえ」

 と頭を下げて、床を見つめた。

 先生は呆れたように、ふん、と鼻息を漏らしてから「じゃあ次、東山さん」と促した。


「ということで、困っているわけさ」

 学食だ。夏のこの時期になると一年生たちが目新しさだけを理由に利用することもなく、エアコンが不調のまま放置されているせいもあって人気(ひとけ)はない。

 そのぶん、聞かれたくない話題を話すには適していた。

「人の顔を描けない、なあ」

 テーブルを挟んだ先で、綾瀬が腕を組み、神妙なため息をついた。木山造形大学芸術学部イラストレーション科の生徒は、制作にスペースを要する関係上、二十人ごとにひとつの教室が与えられ、学年ごとにクラス替えもある。綾瀬とは一年のときから二年連続で同じクラスの腐れ縁だ。

「友達とか、先輩とか先生とか、みんな描けないんだよね」

「いつから?」

「小学四年生」

「うそ? よくここまで隠し通せたな」

「似顔絵を描いてって要望には、かわいく描けないからと言って逃げてきた。受験は静物デッサンと、イメージ表現だけだったでしょ。一年のときも人物画はクロッキーだけだったし」

 クロッキーとは、モデルを短時間で簡略に写生する絵画のことだ。多くの場合は数分、短いと数十秒。主に、動きのある人物や動物を描くための練習としておこなわれるものだから、顔は今回と同じようにアタリ線だけを描いた絵でも、どうにか乗り切れた。


「原因はまったくわからないのか?」

「実は、見当ならついてる」

「へえ?」

 綾瀬は肘をついて前のめりになる。私は唇を一度、内側に折り込む。本当は綾瀬にだって知られたくない秘密だけれど、背に腹は代えられない。課題の〆切は待ってくれない。

「小四のころ、クラスにA君というムードメーカーの子がいたんだけど」

 ほう、と綾瀬が相槌を打つ。

「いつからか、男子の間でAくんへのいじりが強まってきて、目に余る感じになってきたの。持ち物を隠されたり、ランドセルを痛めつけられたり。あるとき、誰かがA君を後ろから蹴ったこともある。A君は振り返って、さすがに怒るかと思いきや『痛~いですね~』とおちゃらけて踊ってみせた。そういう子だった」

「心の強い奴だ」

「けど、次第にエスカレートした。面白がった男子複数人がA君を囲んで、殴ったり蹴ったりして、A君はそのすべてに『痛~いですね~』の踊りで返す状況ができた」

 綾瀬は顔をしかめる。「痛々しいな」

「私はいてもたってもいられなくなって、止めに入った。嫌がっているからやめなよって。けれど男子たちは『ただの冗談だよ、放っとけよ』と言って取り合ってくれなかった。A君も、『そうだよ、邪魔しないでよ』と苦い顔で拒んだ」

「A君も?」

「そう」

「なんで」

「わからない。女子に止められるのが恥ずかしいと思ったのかもしれないし、私のひと言で事態がもっと悪くなると思ったのかもしれない。今でもずっと気になっているんだけど」

「それから?」

「それから、今度は私が標的になった。殴られたり蹴られたりはないけど、筆箱に砂を入れられたり、髪の毛を後ろから切られたりした」

「そんなばかな」綾瀬は眉間に皺を寄せる。「A君は? 助けてくれなかったのか」

「うん。加害者にもならなかったけどね」

「黙って見ていたなら、加害者と同じだろ」

 熱の入る綾瀬に、私は苦笑する。

「ともかく、以来私は、人の顔を描けなくなった。筆を持って画面に載せようとした途端に、止まっちゃうんだ」

「人間不信みたいなもんか」

「たぶんね」


 綾瀬は神妙な顔をした。背もたれに体を預け、ふうと息を吐く。

「俺は付き合っている間、そんな大事なことも教えてもらえなかったわけだ」

「話すきっかけもなかったしね」

 綾瀬とは入学して早々に付き合った。理由は単純で、需要と供給が合ったからだ。私は高校では彼氏がひとりだけ、しかもひと月で別れて未経験。大学にもなればいっぱしの経験をしておきたいということで、女慣れしていそうな綾瀬に惹かれた。でも蓋を開けてみれば彼も、軽薄なのは見た目だけで、付き合った数も未経験なのも同じ。互いに、「とりあえず済ませておきますか」と合意のもとに済ませ、合意のもとに別れた。

「ちなみに、俺の顔も描けないのか?」

 うかがうような視線を向けてくる綾瀬に、私はふっと笑う。

「綾瀬は別だよ、そういうんじゃないから」

「よかったあ」

 と彼は机に倒れ込む。それから、はっと顔を起こす。

「でも、それじゃあ俺を描いて出せばよかったじゃん」

「嫌だよ。よりを戻しただとか、変な勘ぐりをされるじゃん」

「そこ気にする? 違うって言えばいいだろ。課題を出すほうが優先だ」

「嫌。今さらどんな気持ちで描けばいいかわからないし」

「なんだよそれ」

「それに、綾瀬だけを描けても根本的な解決にはならないでしょ」

「ああ、それは確かにな。課題、再提出の猶予を貰ったんだっけ?」

「うん、二週間」

「早生先生にしては珍しい温情だ。普段が優秀だからだろうな」

 優秀? 内心でつい苦笑する。

「けど人の顔って、どこまでが描けないんだ? 石膏像の顔は描けるのか?」

「そりゃあ。あれは人間じゃないからね」

「自画像は」

「描ける。一年のときの課題にあったでしょ」

「自分だからかな。じゃあ芸能人の似顔絵は」

「それも試してみたことがある。いけた」

「え、いけるのかよ。どうして? 同級生や先生と何が違うんだ」

「それが自分でも、わからない」

 画面の向こうだからフィクションのキャラクターと同じ扱いなのか、もっと他の理由があるのか。

「そのへんの線引きがしっかりわかれば突破口が見えそうだけどな。もっといろんな顔を描こうとしてみたらいいんじゃないか。たとえば芸能人がいけるなら、近所の喫茶店の店員さんは行けるのか、とか」

「許可は?」

「クロッキー程度なら、基礎練習として通行人を許可なく描いている美大生は沢山いるだろ。あれと同じで手早くやるんだよ。描けるかどうかの確認さえできればいいわけだから」

「なるほど」


 念のため、自分のリュックサックにクロッキー帳が入っていることを再確認する。

 と同時に、たららん、ららん、と軽快な音楽が聞こえてきて、視線を食堂の隅に移した。

 背の高いメタルラックの上に、旧型のテレビが置かれている。昼のワイドショーのアイキャッチだ。番組ロゴのあと、アナウンサーがニュースを読み上げる。

『NPO団体しろはなの会は、全国から集まった三万二千五十四通の署名を内閣に提出し、無職者の社会復帰政策について要求を――』 

「最近、よく聞くな」

 綾瀬が視線を向けたまま言う。

「職のない人たちを支える団体、だっけ」

 しろはなの会。劣悪な労働環境や、職場でのパワハラなど、さまざまな理由で職をドロップアウトせざるを得なかった人たちの境遇改善を、国や社会に訴えている、らしい。

「俺たちも他人事じゃないよな、来年から就活だし」

「でもなんだか怖いよね。あんなふうに街で声を上げて、プラカードを激しく上下に振って」

「あ、みづきは否定派なんだ? ああいう運動」

「否定というわけではないんだけど、集団が熱を帯びているのを見るのが苦手というか」

「小四のときの男子たちと重なるからか? でも無職者を支援するのは悪いことじゃないだろう。みづきを阻害した人たちよりは、どちらかというと、声を上げたみづき側に近い」

「まあ、そうかな」

 なんて、話を合わせながら、歯に繊維が詰まったような違和感を覚えていた。

 ただ、わざわざ綾瀬に反論はしない。波風を立てたくないし、そもそも私はすでに、もっと大きな虚偽をしている。綾瀬の顔だって描こうとしたけれど、描けなかった。


 大学進学と同時に念願のひとり暮らしを叶えた私の城は、六畳一間のぼろアパートだ。

 授業のない水曜日の朝に、ゆっくりと起きてコーヒーを淹れる。フレンチプレスでツッカーノブルボンを。酸味も苦みも過度じゃない、お菓子みたいに気軽に飲める、私のための豆。

 器用と言えば聞こえはいいけれど、なにも突出したところがない、そういう人間だと自覚している。勉強もスポーツもある程度。容姿はよくはないけれど、きっとそこまでひどくもない。すべてにおいて中途半端で、だから光るものがない。

 先生からまじめだと思われているのは、身の程をわきまえているからだ。課題の〆切りは破らないし、出来も及第点。手のかからない生徒、だけど印象にも残らないんだろうな、と我ながら思う。

 ひそかに願っている。特別な人になりたい。

 そもそも美大に進んだ理由がそれだ。

 絵は昔から好きだったけれど、突出していなかった。おまけに人の顔が描けないとなると、絵描きになんてなれるわけがない。高校二年生までは、公立の文学部に行くつもりだった。けれどあるとき、テレビでドキュメンタリーを見た。当時人気だったお笑い芸人が電撃引退して、イラストレーターになったという。その芸人のことは、流行語大賞にノミネートされたフレーズくらいしか知らなくて、特別好きだったわけじゃない。けれどインタビューでの台詞が印象に残った。「お笑いでもイラストでも、手段はなんでもいいんです。人を笑わせられれば、自分に特別な価値があると思えるから」

 ああ、いいなあ、私も特別な人になってみたい。そう感銘を受けた。

 衝動的に画塾へ通い、受験で人物画を描かなくて済みそうな地方の弱小美大を見つけ、どうにか受かった。それから一年間、せこせこと優等生をやってきて信用を溜めた。

 でもそれも今、人の顔が描けないがために失おうとしている。

 危機だ。真面目さしか取り柄がないんだから、これくらい克服しなければ、私に未来はない。


 学校からの帰り、自宅のアパート前まで来たとき、なんとなく家に帰りたくなくて、そのまま通り過ぎた。

 大学と逆方向にしばらく歩くと、それだけでもう、知らない世界に迷い込む。

 毛羽だった三毛の野良猫を徒歩で追いかけて、すぐに塀の陰に見失い、見失った方向に曲がれば湿った水路が続いていて、その脇の薄汚れたコンクリートの細道を、バランスを崩さないようにちまちまと歩いて進んでゆく。背の高いブロック塀とブロック塀の隙間を通る。ブロックに空いた丸い穴からは、不明な古い倉庫が見えた。もうずいぶんと人は訪れていないようだった。灰色の迷路を抜けると、左右に横切る小道に出た。軽自動車がどうにかすれ違えるくらいの幅のアスファルトだ。アスファルトの先にはフェンスが立っていて、フェンスの向こうは雑草の生えた小高い土手、その上には線路が走っている。私鉄のものだ。

「田舎ぁ」

 と、つい声を漏らして笑う。

 アスファルトへ足を踏み出してみる。

 と同時に、かさ、と音が聞こえてきて驚く。

 右へ目を向ける。百メートルほど先に、妙な区画があった。土手の雑草が一部刈り取られ、かわりに栄養価の高そうな土が盛られている。そこにつる植物が生えている、つるはフェンスを支柱として生き生きと伸びている。実っているのは、ミニトマトと、キュウリ。小規模な菜園だ。そして、その足元をいじっている人影があった。

 顔は日焼けのせいか垢のせいか、黒ずんでいて年齢は読み取りづらいが、五十代くらいの男性に見える。夏だというのに、ダウンジャケットを着こんでいる。本来は黒だったのだろうが灰に色落ちしている。ズボンも薄汚れた黒だ。

 ホームレスだ。

 と、瞬間的に理解した。

 手の動きから、野菜を盗んでいるとまっさきに思った。でも、すぐに違うと気づく。男性の手には、軍手と鎌。足元には、抜かれた雑草が溜まっている。彼が育てているのだ。

 私は周囲を確認する。人通りはない。塀の陰に隠れ、男性をじっくりと観察した。

 彼はつるの根元を吟味し、指で芽を間引いている。手つきは慣れていて、もう何回も同じ手順をこなしてきた熟練の風格がある。


 絵になるな。

 と反射的に考えてしまう。

 手早くノースフェイスのリュックを下ろし、中からクロッキー帳と3Bのステッドラーを取り出すと、あぐらをかいて地面に座り込んだ。綾瀬は言っていた。「こっそり手早くやるんだよ」。顔を描きたい。目を細めて彼を見つめる。色と色の境界、質感、画面全体がもつ空気。なによりクロッキーでは、フルカラーの現実を鉛筆のモノトーンに落とし込むために、明度に着目する必要がある。日に焼けた横顔、その中にも濃淡はある。照り付ける日射しを浴びた、すらりと高い鼻はてかり、色が飛んでいる。逆に目元は、眉骨から濃い影が落ちている。鉛筆の芯ぎりぎり手前を持ち、傾け、撫でるように紙面へ写し撮ろうとして――手が、震えだす。まるで磁力が反発しあうみたいに、私の筆先は紙に触れられない。

 奥歯を噛み、ぐ、ぐ、と押し込もうとしても無理だ。

 私は観念し、ふうう、と重い息を吐いた。

 ――この人でも、だめなのか。

 いや、でも、別にいい。私が描きたいのは、彼の顔だけじゃない。剪定に慣れた彼の腰から脚、肩から肘の動き。腰をかがめた姿勢。剪定が済むと、スプレーで水分を吹きかけはじめる、強い日光にきらめく水滴が美しい、その様子だ。私は気を取り直して大きな流れとして、それらの動きを紙に写し取る。数十秒で一枚、それが終わればまた一枚、一枚、彼の身体を黒く塗ることでしぶきとの対比を表した。彼が背中を向けてしゃがみこむと、まるで生ごみの塊のようで、頭上へと伸びている鮮やかな緑との対比が切ない。けれどその緑は彼自身の功績でもあるのだから、誇らしげにも見える。それらすべての印象ごと、クロッキーに映してゆく。


「なにを勝手に描いているんだ」

 びくっ、と私は紙面から顔を上げる。

 彼がこちらを振り向いていた。いつのまに? いや、私が集中しすぎたのか。

「あ、えっと」息が止まる。

「私みたいな人間なら、許可なく描いてもいいと思ったのかい」

 外見に似つかわしくない、溌溂とした声だった。低くて、がらついているけれど、よく通る。私は勢いよく立ち上がり、どうにか堪える。

「そういうわけではありません。ごめんなさい」

 全身全霊、頭を下げる。が、男性の足音は止まらず私の方へ向かってくる。私は怖気づき、さらに深く限界まで頭を垂れ、大声で言い訳みたいに叫んだ。

「それに、顔は描きませんから!」

 彼の足音が、私の頭の先すれすれで止まった。

 恐る恐る、そうっと顔を上げる。彼は訝しげに眉間を狭めている。

「顔を描かなくて、絵になるのか?」

 私は苦笑する。

「全然、なりません」

 正直に答えると、彼はきょとんと目を丸くしてから、ふっと頬を緩めた。


10

 彼は、見た目こそほろ汚いが、近づいてもそんなに臭くはなかった。不思議だな、と思っていると彼は両手を広げてみせた。

「そんなに臭わないだろう? 僕は肉も魚もあまり食べないから。こう見えて清潔感には気を配っているほうなんだ」

 つい、くす、と笑ってしまう。

 が、すぐに、今のは失礼だったなと思い直す。

「すみません。笑うところじゃないですね」

「いや、今のは冗談だから笑ってくれていいんだよ」

「あ、ごめんなさい」

「こちらこそ、わかりづらくて悪かった。もうしばらく、人と話していなくて」

 彼は眉をハの字に下げて、困ったように微笑む。

 ひげのせいで口は隠れている。歯の色を確認しなくていいことに内心ほっとした。もし黄ばんでいたら、きっと私は彼を生理的に嫌いになってしまっていただろう。

 私は彼の後ろにある、菜園へと目を向ける。

 彼がそれに気づいて「見ていくかい?」と言ったので、私は「ぜひ」と答えた。

 近くで見る実たちは、スーパーで売っているものよりも形は歪で、サイズもまばらだった。けれどどれも、色鮮やかに見えた。

「あなたが、種から育てたんですか?」気になっていたことを訊いてみた。

「ああ。このへんだと、ホームセンターで百円から売っているよ」

「怒られませんか?」

 おそらく、土地の管理者に許可をとってはいないだろう。

「怒られない」彼は堂々と言う。「少なくとも、直接注意されたことはない」

「それは注意されないだけで、やってもいいという意味ではないのでは」

「そのために人目につかない場所を選んでいるからね」

「確信犯ですか」

「知っているかい。確信犯はもともと、そういう意味じゃないんだよ」

 はぐらかすように彼は笑う。

「肥料やなんかは、どうしてるんですか?」

「買ってくる。最初は土手の土を使っていたけれど、全然実らなくてね。けっこう良質な培養土が必要だと学ばされたよ」

「元、取れるんですか」

「虫が来るか、病気にかかると、ほとんどだめになる。そうでなきゃ元は取れる。だが、そもそも元を取りたくてやっているわけじゃない」

「なら、どうして」

「生き物を育てることは、気持ちいいだろう」

 唐突に出たスピリチュアルな答えに、私は「はあ」と漏らすしかできない。

「ホームレスのくせに、と思ったかい」

「え、いや」

「いいんだよ。素直な反応だ」

 彼は猫背を反らして、痛快に笑う。声は快晴の空まで突き抜ける。周囲に人がいたら変な光景に映るだろうな、と思った。でも、嫌な気分ではなかった。


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 それからも菜園の知識をいろいろと教えてもらったけれど、興味はあまりないから覚えていない。ただ彼の聞きやすい声を聞いている、そんな時間だった。

 いつのまにか日は傾いて、夏の西日は強烈な角度で土手を照らしていた。菜園からアスファルトへと濃くて長い影が伸びているのを見ると、これも絵になりそうだった。描きたいな、と思っていると、彼が言った。

「そろそろ帰りなさい。このあたりを、スーパーに向かう主婦たちの自転車が通るころだ。見られると、変な子だと思われるだろう」

 私は地面の影から、彼へと視線を移す。

 その目は橙色の夕日を受けて、美しくきらめいている。

 彼の気遣いに「ありがとうございます」と心からの礼をして、菜園を後にした。


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 美大生にもなって人物画を描けないというのは、私からすればとても恥ずかしいことだから、練習は同級生の目を避けてするしかない。綾瀬と付き合っていた時代に撮った写真データをフォトショップで色調補正し、白黒印刷した。白黒写真を模写するのであれば石膏像と似たようなもので、人の顔とは認識されないのではないか、と思いついたからだ。

 けれど、だめだった。顔に鉛筆を載せようとした途端に、斥力が働き、手が止まる。

 写真なのに――本人が目の前にいるわけじゃないのに。どういう理屈なんだよ。自分で自分に苛立つ。

「キャラクターの顔は描けるのね」

 と早生先生に背後から声をかけられたのは、ひどい不意打ちだった。

 課題を待ってもらっている期間にも、講義は進む。その日は他の先生からキャラクターデザインの課題が新たに出て、架空のキャラクターであれば描ける、ということを学食のテーブルの上で落書き帳を開きながら再確認し、ほっとひと息ついていたところだったから、心臓が飛び出るかと思った。

 先生はうどんを載せたおぼんを手に持ったまま、軽く腰を折り、私の絵を覗く。

「写実的な描写に苦手意識があるのかしら」

「そういうことでは、多分ないと思います」

「では、なぜ」

 どこまで打ち明けようか、と思案する。綾瀬に相談したのと同じ話を繰り返そうかとも考える。けれど早生先生は美術に真摯な人だ、中途半端な回答をすると今度こそ失望される。私自身がまだ掴み切れていない靄に、適当な解釈をつけて伝えるわけにはいかない。

「まだ、自分でもよくわかっていません」

 彼女は、ふむ、と上体を起こす。

「きみは、なぜ絵を描くのかな」

 それは。

「特別な人になりたくて」

「へえ? 普通こういうときは『好きだから』と答える子が多いけれど」

「絵は好きです、もちろん」

 そして、こういうときに、好きだから、と純粋に答えられる人を羨ましいとも思う。

「でもそれよりも私は、平凡な自分から抜け出す手段として、絵を選んだんです。だから、ここに来ている誰よりも、動機は不純だと思います」

「不純」

「絵に真摯じゃない。ひょっとすると、それを絵の神様みたいな存在に見抜かれているのかもしれませんね。だから描けない」

「そんなふうに思っているのに、まだこの道を進みたいんだ?」

「今のところは、諦められる方法が見つかっていません」

 早生先生は微かに、唇の端を上げたように見えた。

「面白い言い回しだね」

「え?」

「いえ。人物画の再提出期限まで、あと七日。楽しみにしています」

 言い放つと、早生先生は私の席を離れた。「は、はい」と弱く返した声は、たぶん先生には届いていなかったろう。メタルラックの上のテレビが騒がしく、しろはなの会の活動活発化のニュースを流していた。街頭インタビューでは隣町の、私と同じ歳くらいの大学生が答えている。『迷惑ですよね、はっきり言って。通学の邪魔ですし、消えてほしいです』私は恐ろしくなって、そそくさと席を立った。


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 再び、菜園を訪ねた。彼は相も変わらずそこにいた。いや、そんな言い方は失礼なのだけど。ここは彼の庭で、お邪魔しているのは私の方だから。

 私は、小道を挟んた塀に背を預け、三角座りの要領で腰を落として、彼の手つきを眺めた。見ていて特別な楽しさがあるわけではないけれど、飽きもしない。癒しというにはあまりにかわいらしさがないけれど、この時間に救われているのは事実だった。

 彼はしばらく、私なんて気にしていないようすで庭いじりをしていたけれど、やがて頭をぽりぽりとかきながら振り返った。

「見られるのは、あまり好きじゃないんだ」

「なら、話をしてくださいよ」

 と私は返す。

「話?」

「なんでもいいです。日常を忘れられる内容なら」

「嫌だよ、そんな義理はない」

「ならずっと、ここに居続けますよ」

 彼は眉をハの字に下げる。とぼとぼと近づいてくる。私からはひとりぶん空けた隣に、同じように座り込んだ。がたこん、がたこん、とフェンスの向こうを電車が通り過ぎるのを待ってから、ひげだらけの口を開いた。

「なにが聞きたいんだい」

「そうだな。じゃあ、どうしてホームレスになったんですか」

 単刀直入すぎるのは、たぶん自暴自棄だったからだ。

 彼は苦い草でも口に突っ込まれたように、顎を引いた。

「まあ一般的には、自己破産できない人、生活保護の申請ができない人などがなるものだね」

「役所に受け入れてもらえないってことですか?」

「それもあるし、そもそも知らない場合がある。基本的な制度知識がない人というのは、僕たちが思っている以上に多い。義務教育でそこを詳しくやるわけでもないしね」

 イメージしづらかった。自己破産や生活保護という言葉そのものは、普通に生きていたらどこかで耳にする。私なら生活資金の面でまずくなったらまず頭をよぎる選択肢だ。でも、それを自然とできない人がいるというのなら、しろはなの会のような活動には意味があるのだろう。

「他には、なんらかの病気や障害で、調べものや役所での申請が困難な人もいる」

「ああ」

「あとは、警察から逃げている犯罪者とかかな。公的な書類申請には大抵住所を書く必要があるから、居場所を特定されるのが怖くて社会から身を切り離している」

 なるほど、勉強になる。

「それで、あなたはどれなんですか」


14

 彼は空を見上げた。青くて果てしない。ごおおと飛行機の音が聞こえている。けれど、どこを飛んでいるのかは見つけられなかった。

「僕はどれでもないよ。望んでなった」

「望んで?」

 彼は空を見たまま、いつもよりもずいぶんと弱い声で漏らした。

「もともと、お笑い芸人だったんだ」

 瞬間、私は頭を殴られたような感覚を覚える。

 彼の横顔を見つめたまま、全身の毛が逆立つのを感じる。

「まさか」

 私は反射的に、十年前に流行語大賞にノミネートされたギャグのフレーズを口にする。

「『僕には、難しすぎてわかりません』?」

「『エポケー』」

 彼は流れるように合いの手を答えてから、苦笑する。

「なんだ、気づいていたのかい」

「いえ、言われるまで気づきませんでした。昔とは、顔が全然、その」

「変わっちゃってるからね。あの頃はもっと太っていたし、ひげも――」

「私、あなたのドキュメンタリーを見てこの道に進んだんです」

 彼の言葉を遮って、思わず身勝手な言葉が溢れた。

 特別、彼を好きだったわけじゃない。でも彼は私の人生を変えた人間だ。

 彼は一瞬目を見開き、それから、

「ああ、そうだったのか。それは」

 と言い淀んだ。私は眉間を狭める。――それは? それは、なんだ。

 まるで、「それは悪いことをした」とでも言いたげな表情だ。私は寂しさを通り越し、少し苛立つ。


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「どうして、こんなところでこんなことをしているんですか。イラストでは稼げなかったんですか、生活ができないくらいに」

「いや」

 と言ってから、彼は言葉に迷うように言った。

「僕のお笑い時代の芸風を知っているかい?」

「社会風刺をまじえた、フリップ芸ですよね」

 ドキュメンタリーを見たあと、改めて調べなおした。自分で用意したスケッチブックを紙芝居のようにめくり、当時あった時事ネタを題材にした絵や文字を見せながら、自分でツッコミを入れていくスタイルだ。

「政治家の不誠実な言動とか、ブラック企業の不可思議な体制とか、結構デリケートなニュースにも踏み込んでいましたよね。それについて、批判と擁護のどちらの視点からも意見を言って、最後は桶屋が儲かるみたいな飛躍した展開になって『難しすぎてわかりません、エポケー』と間の抜けたフレーズを口にする。見ていて、これはお笑いなのか? となる独特の後味が、奇抜で、でもなんだかすごいことはわかりました」

「ありがとう」

 彼は心底照れくさそうに頬をかく。

「でも、たぶんアンチの方が多かったんじゃないかな」

「不謹慎だから?」

「もあるし、勉強が足りないという声も多かったな。人権や政治の歴史、事件の背景について、専門的なレベルで調査できているわけでもないのに、軽率に触れているって」

「そんなこと言ったら、ごく一部の専門家しか意見を発信できませんけど」

「それも一理ある。でも僕の芸で、事件の当事者の人たちが傷ついているんじゃないかって議題はよく持ち上がっていたから。それを許せなかった人たちは、僕をどうにかしたかったんだと思う」

「なにかされたんですか?」

「なんの新鮮味もない、聞いたことがあるようなやつだよ、郵便物に刃物が入っているとかね。そういうのは事務所があらかじめ開封してチェックしてくれるから助かるんだけど、ただ、ネットでの罵詈雑言はそうもいかなくて、きつかった。エゴサーチっていうのかな、自分の芸名で検索して愕然としたよ」

 彼は、苦笑まじりに頬をかく。

「僕の芸の足りない部分を批判しているのは、ありがたく受け入れて反省できる。でも半分くらいは芸と関係のない、僕の容姿や学歴、人格を批判する内容だった」


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「誰かを傷つけた人は、傷つけていい、みたいで私は好きじゃないです。私刑ですよね」

「ありがとう。でも、私刑する気持ちを僕はわかる側の人間だからさ。あの芸の着想も、もともとは『こんな理不尽がなぜまかり通っているんだ』という憤りだったし、僕自身、直接的ではないにせよ政治家を連想させて揶揄する、という私刑行為をしていたとも言える。そのつけが、巡り巡って僕に帰ってきたわけだ」

 私は、反論したい気がしたが、言葉にはせず、かわりに乾いた唇を湿らせた。

「それで、イラストレーターに?」

「うん。フリップ芸のおかげで絵は描きなれていたからね。お笑いでもイラストでも、手段はなんでもよかったんだ。もともと、人を笑わせることで自分に特別な価値があると思いたかっただけで」

 そうだ、と当時の感情を思い出す。私はこの人の、この価値観に共感したのだ。

「だから作風を変えたんですね? 子供の絵本に使えるような優しいものに」

「ああ、親子の笑顔も立派な笑いだろう?」

「もちろんです」

 彼のイラストレーションは、客層こそ以前までと変わったけれど、人気は充分にあった。

 なのになぜ、この生き方を選んだのか? 

 彼は放り出した自分の両足の間に転がる、黒ずんだアスファルトのかけらを見つめていた。彼の言葉の続きを、私は待った。けれど彼は、不意打ちみたいに立ち上がると、私の方を振り返った。

「それで、きみはどうなの」

「え?」

「僕みたいな人間のところを再度訪ねてくるなんて、どうかしているでしょう」

「そうでしょうか」

「そうだよ。そもそも描こうとする神経もおかしいし」

「迷惑ですか」

「ああ。僕は、人に見られるのが好きじゃない」

「芸人なのに?」

「元、芸人だ」

 きっぱりと言い切るような、珍しく厳しい口調だった。


17

 私は観念し、ため息を吐く。彼に話してもらったのなら打ち明けないわけにはいかない。

「私、顔を描けないんです」

 彼は、意味がよくわからない、というふうに首を傾げる。

 私は事情を詳細に話した。石膏像や自画像や、芸能人の顔なら描けるけれど、元カレとなると白黒写真の模写もできないこと。

 そして、その原因には、幼いころのトラウマが関わっているだろうということ。

「――A君がどうしてあのとき苦い顔で拒んだのかは、今でも気になっています。当時もわからないまま、彼らの標的は私に移ってしまって。以来、描けなくなったんです」

 なるほど、と彼は真摯なため息を吐いた。

「おそらく人間不信のようなものだと思うんですけど」

「人間不信? なぜそう思うんだい」

「え? なぜって。どういう意味ですか」

「いや」

 彼は歯切れ悪くそう言ったきり、しばらく黙った。

 なぜ? なぜもなにも、状況的に、それ以外にないだろう。

 彼はなにかを考えている様子のまま、菜園のほうに歩き、手入れを始める。薄汚れたエコバッグの中から曇ったペットボトルを取り出し、どこかで汲んできたのだろう水をふりかける。あれ? もう返事は貰えないのかな、と不安になったころにようやく、再び口を開いた。

「こういうのはどうだろう」

「なんでしょう」

「描けないなら、まったく描かない」

「描かない?」

「そう、溺れたときは、もがくから余計に沈むだろう? 力を抜いてなにもしなければ、案外浮かべるかもしれない。絵を描くことに困ったなら、一度絵から離れてみるんだ」

 なるほど。

「それは、考えたこともありませんでした。やってみます、ありがとうございます」

「ああ、少しでもヒントになったならよかったよ」

「しばらくしたら、また報告させてもらいにきますね」

「いいよ、そんなの」

 彼は苦笑まじりに、手を払うようにひらひらと振った。


18

 私は、彼の言葉にのっとって、すでに完成間近まで描き上げていた風景画の課題を、あえて放置し、〆切を破った。担当の御子柴先生には、もちろん怒られた。が、それよりも先生からすると困惑の方が大きいようで、「悩んでいることがあるなら相談に乗りますよ」と言われた。今までずっと、宇和島みづきという生徒はまじめで通してきたからだろう。その信頼を崩すのも、心配してくれる人を裏切るのも、ひどい苦痛だった。

 でも一方で、ずっと張りつめていたものが解けるような感覚もあった。

 授業も、適当な理由をつけて欠席した。

 これだけあからさまにさぼると時間が余る。私は気を紛らわせるために、流行りのクレープ屋さんに行った。必修授業に出ると、売り切れに間に合わなくなってしまう人気店だ。

 きめ細かくふんわりとした生クリームと、身のぱつんと張った真っ赤ないちご、とろりと濃厚なチョコレートソースにまみれたクレープを頬張るとき、甘いという言葉の意味をはじめて教わったような気持ちになる。きっと、絵から離れたからこそ感じる甘さだった。

 そう気づいたとき私の心は、相反するふたつの方向に動いた。

 ひとつは、絵なんて描かなくても世界には美しいものが沢山ある、という感動。

 もうひとつは、この美しいものを描いてみたい、という衝動。

 不思議だった。描かなくても生きていけるのに、どうして描きたいと思うのだろう?

 その答えにたどり着ければなにかが変わる、そんな予感がした。


19

 私がまた菜園を訪ねると、彼は呆れた様子で出迎えてくれた。

「飽きないな、きみも」

「他にやることがないので」

「今日はリュックを持っていないんだね」

「ええ。絵を描くのをしばらくやめました」

「効果はありそうかい」

「わかりません。でも今の私に、必要なことのような気がします。いい答えになるにせよ、悪い答えになるにせよ、回答はいつか出せると思います」

「そうなることを願っているよ」

 彼は柔らかく微笑んで、植物の前に座り込む。いつもと変わらずペットボトルを開けて水をふりかけはじめる。ふと私は、彼の態度が前回相談をしたあたりから優しくなっていることに気づいた。理由はわからない。でも、なんにせよ幸福なことではあった。

 私は塀にもたれ、遠くから彼を眺める。そんなゆるい幸せが、何日か続いた。

 

20

 延ばしてもらっていた人物画の提出期限がとうとう来た。だがもちろん、できていない。

 私は早生先生の研究室を訪れ、頭を下げた。

「このままだと、単位を上げられないよ」

 と早生先生は言う。怒気は籠っていなかった。ただ、落胆は肌で感じ取れた。

「すみません」

 ともう一度頭を下げる。

「いや、私に謝ることじゃない。絵描きとしても別に、人物を描けないからって終わるわけじゃないしね。風景画専門のイラストレーターだっている。ただ、きみは風景画の課題も手を付けていないそうじゃない」

「はい。ちょっと色々と試行錯誤していて」

「まあなんでもいいけど、このまま描かないなら、うちにいる意味はないよ」

 その口調は突き放すようでもなく、事実をただ確認しているだけという感じだった。

 私は最後にもう一度「ご迷惑をかけてすみません、失礼します」と頭を下げ、研究室をあとにした。早生先生はデスクに向かい、もう反応しなかった。

 自分の教室へと帰りながら考える。

 早生先生は、人物を描けなくても終わるわけじゃないと言った。風景専門の人もいると。

 けれど、その例は正しくない。風景の専門家たちは、その道を選んでいるだけだ。たしかに人物が苦手な人もいるかもしれない。それでも、苦手分野に時間をかけるよりは、得意分野で勝負することに決めた人たちだ。はなから描けない私とは、質が違う。

 でも、早生先生がわからないのも仕方ない。特別な才能のある人たちにはおそらく、この症状は理解できないものだろうから。


21

 それからひさしぶりに、綾瀬と話した。あれ以来、私のほうからは全然声をかけていなかったけれど、彼が学食に誘ってきたのだ。

「絵は、どうなんだ」

 と、綾瀬は水のグラスを机に置きながら訊いた。

「早生先生のところに行ってきたんだろう?」

「よく見てるね」

 昼ごはんを食べ損ねていた私は、メニュー内でも最高のコスパを誇る天津飯大盛りを頼んだ。スプーンでふわふわの玉子を割ると、あんが隙間に流れ込んでゆく。その大きなひと山をすくい、頬張る。まず鼻に甘い香りが抜け、舌の上にほどよい辛みがふわりと広がる。そうすると、造花でも枝葉に栄養がいきわたる、そんな気がする。

 水で飲み下してから、言った。

「今は休眠期間。でも、糸口は見えてきたよ。いい結果でも悪い結果でも、答えはいつか出せると思う」

「悪い結果なら悪いじゃないか」

「そうだけど、そうじゃないんだよ。その結果がわかることが重要というか」

「いつかって、いつ出るんだ」

「さあ。それは私にも、まだ」

「おい、本当に大丈夫なのか」

「大丈夫だって」

 私自身は心からそう信じていた。成果物としては創作できていないけれど、確実に前に進んでいると。けれど綾瀬は、水で口を湿らせてから、睨むような目でこちらをうかがった。

「お前がホームレスと話しているのを見たよ」


22

 私は、口に運ぼうとしていたスプーンを止める。

 黄金色のあんがゆっくりと、ひとしずく垂れる。

 目線を綾瀬のほうへ向ける。

「電車に乗っててさ、窓の外を見たときにたまたま、塀に背を預けてホームレスと並んで座っているお前が見えたんだ。そこまで追い詰められているとは思わなかった」

「そこまでって?」

「だから、普通じゃない精神状態になるまで」

 綾瀬の語気はなぜか、苛立っているみたいに強い。

「私、普通じゃないのかな」

「そりゃ当たり前だろう」

 当たり前。

「なんで? 綾瀬、無職者の環境を改善する活動に、賛成だったじゃん」

「あれは、自分の問題を解決するために声をあげることは必要だよなって話だろ。ホームレスと仲良くしたほうがいいなんて、ひと言も言ってない」

 早口の雨に打たれながら、私は天津飯に視線を落とした。割れ目から覗く白いごはんに、あんが侵入して色を染めてゆく。染まった部分をまたスプーンで切り取る。出てきた白いごはんがまた、黄金色に侵されてゆく。その様子を、黙ってじっと見つめる。

「あのな、俺は心配して訊いているんだぞ」

「もう付き合ってもいないのに、そこまでしなくていいよ」

「俺は別に、お前と別れたいとは思ってなかったよ」

 は? と声が出そうになる。「なにそれ、今さら」

「けどお前は本心を見せないだろ。なんというか、ずっと何かを隠しているというか」

 隠している。それは、そうだ。あなたの顔も描けません。人間不信だから、なんて言えるわけがない。「だから、続けられなかったんだよ」と綾瀬はため息をつく。

「本心なんて、見せても傷つくだけだよ」

「なんで言い切れるんだ」

「じゃあ綾瀬は、どうして絵を描くの」

「絵? そりゃ、子供の頃から好きだからだよ」

 当たり前のように彼は答える。当たり前のように。

「なんで急に、絵の話になるんだよ」

「はじめから絵の話だったでしょ」

 私はひと息に言って、天津飯の残りをかき込む。もう味のしないそれを水で流し込む。

 綾瀬は険しく、眉根を寄せる。

「なにか言われたのか、あのホームレスに」

「違う。なんでここで彼が出てくるの」

 彼、の言葉でまた綾瀬の眉間の皺が深くなったことに、私は気づいたけれど、謝りはしなかった。

「お前は考え過ぎなんだよ、もっと肩の力を抜いて、自然にやればいいんだ」

 だん、と私は反射的に両手を机について、立ち上がる。綾瀬が驚いたように見上げてくる。彼が心配してくれていることは重々わかっている。だから、

「ありがとう」

 とだけ言っておぼんを持ち上げ、返却台のほうへと歩き出す。綾瀬はなにか言いたそうな表情をしていたけれど、結局はなにも言わず、席に座ったままだった。


23

 絵を、どうして描くのだろう。

 描かなくても、なにも困らない。

 逆に、描くことで苦しむことは沢山ある。ありすぎて笑えてくるほどだ。

 足が向かった先は、また彼のところだった。いまだに放置されっぱなしの倉庫脇のブロック塀の隙間を抜けて、寂れた小道に出る。右を向けば、ささやかな私の楽園がある。

 と、目に飛び込んできた光景に、足が止まる。

 フェンスを彩っていた菜園が、ずたずたに切られている。つるはちぎれ、根っこは抜かれ、土は飛び散っている。ミニトマトはアスファルトで潰れ、黒ずんだ血みたいな染みを作り、真っ二つに折れたきゅうりが、骨みたいに転がっている。

 その惨状の真ん中に、彼がうずくまって倒れていた。


24

 咄嗟に名前を呼ぼうとして、私は彼の本名さえ知らないのだと気づく。

「大丈夫ですか!」

 駆け寄り、背中に手を置く。ざらついたダウンジャケットが微かにたわみ、ナイロン生地越しに彼の体温が伝わってきた。その熱に少しだけ安堵する。

 彼は呻き、咳き込みながらのそのそと身体を起こす。

「ああ、いや、すまないね、驚かせてしまって。ちょっと休んでいただけだ」

「休んでって」彼の頬を見る。青あざができている。「怪我が」

「ああ、運悪く襲われてね。でも大丈夫、このあたりでよく見かける、普通の若者だ」

「どうしてこんな事を」

「最近、僕たちのような無職者の人権を保護しようと社会に抗議している団体があるんだ」

 瞬間的に思い当たった。

「しろはなの会? でもあの人たちは無職者たちのために戦ってくれているんですよね」

「代理戦争の被害をもっとも受けるのは、代理された本人たちだよ」

 当たり前みたいに彼は言う。

 反射的に、A君の台詞が思い浮かんだ。『そうだよ、邪魔しないでよ』

「若者は、若者なりにがんばっているだろう」彼は苦笑まじりに、呼吸をゆっくりと整えた。「将来への不安の中を、どうにか自分を奮い立たせ、勉強したり、就職活動をしたり。そっちをさておいて、僕たちのような人間を優遇しようとする動きには、納得がいかないのかもしれない」

「それで、あなたを攻撃したっていうんですか」

「どうだろう。彼らが吐いた言葉はごく個人的な鬱憤に塗れていたから、全部を汲み取れたわけじゃないけれど」

 私は血液が熱くなるのを感じる。

「警察に訴えましょう」

「取り合ってくれると思うかい? 僕みたいな人間に」

「取り合わないわけ、ないじゃないですか」

「そうか。でも、僕はもう、そういうのはいいや」

 彼はふっと力なく笑う。なにがいいのか、私には汲み取ることができない。

「なにか、私にできることはありませんか」

「ないよ」

 彼は背中に置かれている私の手を優しく払う。そのとき、つんと臭いが鼻にきた。これほど近づいたのは初めてだからだろう。汗や生ごみというよりは、化学薬品のような臭いだった。大切なものに思えた。拳を握り込む。彼は優しい目で私を見つめると、静かに言った。


25

「顔を描けない理由は、見つかったかい」

「わかりません。今はそんなこと、どうでもいいです」

「どうでもはよくないだろう」

「いいですよ」

「そういえば以前きみは、なぜ人の顔を描けないかを教えてくれたね。あのとき、僕がなぜこんな生活をしているのかの答えを、はっきり返せていなかっただろう」

 目を瞠る。

「教えてくれるんですか?」

 彼は自分の頬についた、青痣に、恐る恐るというふうに触れた。

「敵意だよ」

 敵意、と私は小さく呟く。

「僕は批判から逃れるために、イラストレーターになったし作風も変えた。でも、敵意を持った人たちは、見逃してくれなかったんだ。僕のイラストの使われた商品を破った画像や、燃やしている動画をSNSに流した。僕の住所を晒して、どうやったら上手く殺せるかを理詰めで考察していた。あれは、今思えば冗談というか、憂さ晴らしとしての書き込みだったのかもしれないけれど、当時は、彼らに見られる場所にいる限り僕の安住はない気がしてね」

 彼は色のない表情で笑う。そこでようやく私は気づく。

「だから、こちら側にきたんですか」

「ああ、人の視線から逃げたくて、根無し草を選んだ」

 低い、がらついた声で彼は自嘲的に笑う。

「はじめは、アンチたちにいい気味だと指差された。写真も撮られた。でも、それもすぐに落ち着いた。興味がなくなったんだろう。今の僕は誰にも注目されない。たまにすれ違っても、迷惑そうに目を背けられる。僕に興味のある人なんていない――だから、きみが僕を絵に描いているとわかったとき、長年忘れていた寒気が背中を伝ったよ。逆に、きみが顔を描けないと悩みを打ち明けてくれたとき、僕は最低だと知りながらも、実はほっとしていたんだ」

 彼の声は、とても静かで、よく通る。

「人間不信というものがどういうものか、知りはしないけれど、たぶん僕みたいなのはそれにあたるんじゃないかな。きみのは違う」


26

 私は目を見開き、瞬きをする。

「どういう意味ですか」

「だってきみは、僕を描こうとしたじゃないか」

「はい。でも描けませんでした。人間不信で、人の顔は――」

「はじめに聞いたときに思ったよ、まずその認識が間違っている」

「間違い? どこが」

「じゃあきみは、どういうときに絵を描きたいと思うんだい」

「それは――」

 最近で明確に自覚したのは、クレープを食べているときだった。あの甘さを描きたいと思った。それから、菜園の植物が西日に照らされているとき。そして最後に、彼だ。すべての共通点を考えてみて、少し気恥ずかしいけれど、正直に言った。

「美しいと、感じたときです」

「人を美しいと感じられる人が、人間不信なわけがないだろう」

 その言葉に、がつん、と後頭部を殴られたように頭が揺れる。え?

「なら、私はどうして」

「この問題の本質は、きみが新たな標的として仲間外れにされたことじゃない。その直前だ」

「直前」

「きみはA君に拒まれた理由が、今でも気になっていると言っただろう?」

「はい、ずっと」

「それがきみの異常なところなんだ。きみにとって、A君に拒まれたことは確かにショックだった。ただしショックの原因は、善意が裏切られた、という自己中心的な悲しみからじゃない。自分の善意が、彼にとっては迷惑だった、という後悔からだ。きみは今でも彼が拒んだ理由を気にかけている。自分が標的にされたというのに、ちゃんと助けられなかったA君のことをいまだに引きずっている」

 聴きながら、私は胸の内に懐かしい熱量が芽生えるのを感じた。

 そうだ、あのとき私は。


27

「きみは、A君をちゃんと助けたかった。違うかい」

「はい」唾を飲み込む。「私は彼を助けたかった」

「理由はなぜか、思い出せるかい」

「それは」

 持ち物を隠されても、ランドセルを痛めつけられても、叩かれても蹴られても、自分が飲み込むことで、事を収めようとする。そんな彼を痛ましく思うと同時に、私は彼を――

 呼吸が苦しくなる。その言葉を出すのに、勇気が必要だった。

 裂けたゴム管から漏れるガスみたいな、掠れた声で言った。

「彼を、美しいと思ったから」

 目の奥にはいつのまにか、あのとき流しそびれた熱いものが溜まっていた。

 彼は柔らかく目を細め、背中をさするような、低く優しい声で告げた。

「きみは、自分の絵が人を傷つけるかもしれないと思ったから、描くのをやめたんだ」

 視界がぼやけ、きらめく。

 ぽろぽろと、景色がこぼれてゆく。

「テレビの向こうの芸能人なら描けたのは、きみの絵を見る可能性が限りなくゼロだからだ。逆に、少しでも傷つける可能性があると思えば、きみは描けなかった。それは友達はもちろん、赤の他人の、薄汚いホームレスでさえだ」

「そんな、あなたは」

「僕には、A君がきみの救いの手を払った理由がなんとなくわかるよ」

 私は思わず顔を上げる。涙が頬へ伝った。

「きっと、僕がきみに絵を描かれたくないのと同じ理由だ。自覚させられたくなかったんじゃないかな、自分の哀れな現状を。自分は虐げられているんじゃなく、あえてこの位置にいると、思い込んでいたかったんだと思う」

 ああ、と私は息を吐く。

「配慮が、足りませんでした」

 私は本心から言ったのだけれど、彼はなぜかふっと笑った。

 私は改めて、彼に頭を下げた。

「ありがとうございます。これでようやく、ちゃんと描ける気がします」

「また描くのかい? 絵なんて、描けなくても生きていけるのに」

 彼が言うと説得力がある。それもまた魅力的な生き方だとは思うけれど、私は返す。

「特別な人に、なりたいんです」

 彼は、なにかを諦めるみたいに、「そうか」と頬を緩めた。

「ならきみはもう充分に、特別な目を持っている」

「あなたを、描いてもいいですか」

「嫌だと言ったら?」

「ごめんなさい」

 私は心から頭を下げ、鞄を開けるとクロッキー帳と鉛筆を取り出した。身体が、そうしなければいけないと言っている。彼は苦しそうに顔をしかめたけれど、その顔を隠そうとはしなかった。ただ、肩をいからせ、全身の筋肉を強張らせ、耐えているようだった。


28

 描きたい。そう思うままに鉛筆を動かす。鋭利に整えられた筆先を寝かせ、鉛の腹でしゃ、しゃ、と濃淡をつけてゆく。輪郭線は要らない。ただ影と光があればいい。質感にも気を配る。固い頬骨と、毛羽だったひげ、対して、やわらかそうな瞼。俯いた臆病そうな目元からは、ぴんと張った黒々とした睫毛が下向きに伸びている。眼球は潤ってきらめいているのに、瞳は深い海底(うみぞこ)を見つめているように暗い。黒と白の世界に、私から見えているこの人を、浮き彫りにする。それは彼にとっては酷なことだろう。見られたくない、放っておいてほしいと暗がりに逃げてきた顔を晒されるのだから。でも私の内面は、この人を美しいと思う。彼自身が望まなくても、私は私の自分勝手な美学に則って、彼を光の下に引っ張り出し、観衆へ向けて、どうだ、これが私の目に見える人間だ、美しいだろうと見せつけてやりたいと強く思う。

 それが、私が絵を描く理由だと、今は言える気がした。

 どれくらいの時が流れたかわからない。

 額から流れる汗が頬を伝い、顎から滴りそうになったのを慌てて指先で払ったところで、私は我に返った。画面に、彼の顔があった。

「できました」

 と私はいい、画面を彼に向ける。彼は恐る恐る薄目でそれを見て、

「酷い顔だ」

 と苦笑した。夕暮れの電車ががたたん、がたたん、と通り過ぎてゆく。

 

29

「殻を破ったようですね」

 早生先生の研究室に作品を持っていくと、数秒見つめてから、彼女はそう言った。

「以前のあなたなら、こういう乱暴な作品を提出することもなかった」

「そう思います」

 クロッキーは本来、提出課題としては不適切だ。けれど禁止とどこかに書かれているわけでもない。だから私は彼を額装し、提出した。受け取り拒否とはならなかった。

「どんな変化があったのかしら」

 私は顎に軽く触れる。人が苦手な彼のことを、話そうとは思わなかった。

「特に、大したことは」

「へえ」

「ただ」

「ただ?」

「自分は人と違うんだ、と教えてもらいました」

 早生先生は唇の端を上げ、はじめて微笑んだ。

「それは、いい友人を持ちましたね」

 他にも風景画を放ったらかしていたから、そちらの課題を清算するのに二週間かかった。途中、綾瀬が様子を見に来た。私が前のことを謝ると、彼も謝ってくれて、課題を手伝ってくれた。すべての力を出し切って、ようやく身体が自由になってから私は再び、あの菜園へと足を運んだ。

 土はすっかり修復されていた。植物はまだ生えてきていないけれど、フェンス前に座り込んだ彼は、ペットボトルでおだやかに水をやっていた。

 私は背後から近づいた。

「新しい種ですか」

 彼はこちらを振り向かず、手のひらで土を優しく均していた。

「うん、次はブロッコリーに挑戦しようと思うんだ。このへんだと難易度は高いけど」

「あなたなら上手くいきますよ、きっと」

「そうだといいなあ」

 夏の日差しが照りつける地面に、彼は優しい目を向けている。その横顔に滴る汗の微かなきらめきを、私は逃さないようにじっと見つめている。


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