河端ジュン一が、お仕事以外で作った小説などを載せています。

うちのヤバい事情 case1 父・幹夫 

2021年8月13日  2021年8月23日 

プロローグ<


「おはようございます、磯野さん」

 家族を見送ったあと、脱水の済んでいた洗濯物をベランダに干し、財布と鍵とエコバッグ二つとを掴んで家を出て鍵を閉めたところで、エレベーターホールへと続く廊下を挟んだ、隣の九〇二号室から出てきた鵜飼氏に、声をかけられた。

「おはようございます」と一礼を返す。

 九〇二号室の間取りは三LDKだが、鵜飼氏の暮らしぶりを見るに、男の独り暮らしだった。かといって彼にお気楽な明るさは感じられず、どちらかというと暗く、疲れ、細り、乾き、摩擦で毛羽だった雑巾のような印象を受ける。五十代前半のはずだが、還暦を超えて見える。

「毎朝、にぎやかでいいね」

「騒がしくして、すみません」

「ああいや、そういうつもりで言ったんじゃないんだ。素直に、微笑ましくてね」

 左手で、短い白髪をかしゃかしゃとかく、鵜飼氏の左の薬指には指輪がある。特段、俺は彼に興味がないし、彼も俺に興味はないだろうと思っていたが、何度も顔を合わせるから気づく。

 下りのエレベーターが一緒になったので、俺が先に乗り、一階と開のボタンを押す。鵜飼氏が「あ、すみません」と俺の斜め後ろに立つ。なにも話さないのも気まずいか、と口を開く。彼に興味はないが、ご近所づきあいを疎かにはできない。

「ご結婚、なさっているんですね」

「ん? ああ、これ。そう、妻には数年前に先立たれてね」

「あ、すみません、無神経な質問を」

 しかし、会話は得意ではないからよくミスをする。

「いや、すべては報いだから」

「報い?」

「二十代の頃、友人の婚約者と結婚したんだ」

「略奪愛ですか」

 報いも略奪愛も、はじめて口に出したかもしれない単語だ。

 とはいえ、やはり興味はない。顎を上げ、オレンジ色に灯る階数表示を見つめる。

「そう、もともとは友人から、婚約者として紹介されたんだよ。少し会話をしただけで、なにか決定的に合うものがある、とわかった。きっと相手も同じだった。そう確信できるくらいに、衝撃的な出会いだったんだ」

「運命というやつですね」それらしい単語で返す。

「まったくそのとおり。それで、燃え上がってしまった。田舎で、噂が広まり、不義理な恋愛だったから親からも猛反対され、逃げるように土地を離れた。すべてを捨てての逃避行だった」

「ドラマみたいだ」

「でもおかげで、妻を亡くしたあとは、何も残らなかった」

 俺は沈黙する。再び前を向き、彼と同じ階数表示を見上げる。

「妻の元彼氏であった友人は、親友と呼べる男だった。だから、本来なら、腹を割って話し合うべきだった。殴り合ってでも、気持ちを伝え合うべきだった」彼は息を吸い、長く吐く。湿気が、服越しにでも背中を蒸してくるようだった。「でも、それをしなかった。僕の方が悪人なのは明白だから、親友と相対したとき、どんな目を向けられるかを考えると、会えず、逃げた。おかげで、僕は友を失った。あるいは、両親に謝り、どうにか認めてもらえるよう説明する選択肢もあったのかもしれない。でもそれもしなかった。だから、今、僕はひとりになってしまった」

 くん、と軽い重力が体にかかる。階数表示が、ようやく1を示す。

 ドアが開く。

「きみが僕に感じている、蔑みや同情のすべてが、罪から目を背けた報いだよ」

 そう言うと、一礼をしてから、鵜飼氏はエレベーターを降りた。エントランスのガラス戸から射し込む逆光が彼の輪郭を侵食し、シルエットがひと回りしぼんだ。

 蔑みや同情?

 一般的には、そんな感情を抱くのだろうか。俺にはわからない。

 

 物心ついたときには、父親はいなかったが、そのことをどうとも感じなかった。

 割合として少数派とは認識していたが、不幸とも幸福とも思わなかった。

 たとえば、親の職業がサラリーマンだったり医者だったり農家だったり色々あるのと同じように、うちには父がいないのだと認識していただけだと思うのだが、正確には、そんな論理だった認識さえしていなかった。すごく自然に、うちは母と俺のふたりだった。

 母、式見由美は、前向きでエネルギッシュで、悲壮感の対極にいる人だった。足りないものを指差して涙を流すよりも、足りないものは本当に必要なものか? 必要ならどう調達するか、をスピーディに考える人だった。だから母にとって父は一時的に必要で、途中で要らなくなったのだろう。一方で、子、つまり俺はずっと必要だったのだろう。

 俺が中学一年生のとき、母はそれまで「フリーランスのライター」と言っていた職を「実は殺し屋なんだー」と軽い口調で打ち明け、その職をしている動機について、「だって、人の心を殺してくる加害者を、被害者が肉体的に殺せる手段が要るでしょ?」と語った。「私は殺してもいないし、殺させてもいない。選択肢を与えているだけ。だから悪くない」とも言った。

 母の仕事のスタイルは、殺さない殺し屋と言われていた。

 標的の生活サイクルを調査し、決行可能な時間と場所を見繕う。決行日には、母は結構場所の近くでレンタカーに乗り換え、依頼人を途中で拾い、ふたりで射撃スポットまで行く。母は依頼人に、用意したライフル銃を貸し、狙撃スポットも狙撃のタイミングも指示し、標的を依頼人自らの手で撃ち殺させる。「猿でもできる復讐」が売りだった。

 実行後、母は再びレンタカーに依頼人を乗せ、遠方で下ろす。その後ひとりでレンタカーを返し、自分の車に乗り換えて帰宅する。

 自分の手を汚さないから、殺さない殺し屋、なのだが、依頼人が撃ち損じたり、ためらって引き金を引けなかったりした場合には、早々に諦め、標的にばれないうちにずらかる。そして大抵の依頼人は、射殺直前に躊躇ったり、撃ったとしても手の震えで心臓を外す。結果、標的はほとんど死なない、という意味でも殺さない殺し屋だった。なお殺害が失敗しても、母は報酬を成功時の半額せしめる契約だ。それでも依頼人から不満は上がらない。皆一様に、「ありがとうございました」と頭を下げる。

 だから母はいつだって、自分は正義の味方だという顔をしていた。

 そのせいか俺は、母から「私の仕事の真実は誰にも言っちゃだめだからね、頼んだよ」とウィンクされたときも、「そうか。母さんは、いい殺し屋なんだな。ヒーローがマスクをかぶるのと一緒だ」と、奇妙な納得をしたほどだった。


 

 母は俺に仕事を打ち明けて以降、俺に手伝いをさせるようになった。はじめは、口座から現金を下ろしてくる仕事だった。以降、資料整理をしたり、銃のメンテナンスをしたりと、スキルの必要な職務内容へとグレードアップしていった。

 母が俺に仕事を言いつけるときの、「頼んだよ」には、魔法の効力があった。意味は「必ずやれ」だ。

 逆らうか、ミスがあれば、ナイフが飛んできた。中二のとき、紙資料を重ねる順番を間違えたことで、刃先が頬を掠めた。血を流した俺に母は、「もう、なんで怪我するの、面倒くさいなあ」と言って、救急箱を持ってきて応急処置を施した。逆にナイフを避けると、「すごい! さすが私の子、身のこなしがいいね」と頭を撫でてきた。そういう親だったのだ。

 母は、俺が十八のときに再婚した。今の親父だ。当時はサッシ施工業者をやっている、筋骨隆々の、いかつい人ではあったが、一般人なのだから母に比べれば恐ろしくもなかった。母の過去の仕事については、もちろん知らない様子だった。

 親父は昔気質で、頑固で、断定的な言葉をよく使った。おまけに、万年上機嫌の母と対照的に、いつも不機嫌そうだった。一般的には、好ましい人格ではない。

 だが母は、そんな親父の言うことはきっちり守った。なにか弱みでも握られているのかと疑ったが、実際はそうではないようで、単に信頼しているらしかった。ふたりの間に何があったかは、よく知らない。

 ここで重要なのは、母が再婚を機に、しれっとあたかも普通の人間かのように生き始めたことと、同時に殺し屋を引退し、俺に稼業を継がせたことだ。

「これからは、あんたの番。だーいじょうぶ、本当に撃っちゃうやつは滅多にいないし、殺しちゃう奴なんて、もっと少ないから」

 と母は笑い、

「頼んだよ」

 と、俺の目をじっと見つめて、頭を掴むように撫でてきた。

 そうされると、ノーとは言えなかった。どころか、「いつかこういう日が来ると思っていた。覚悟はできている」とさえ思った。

 

 スーパーでの買い物は、できるだけ一度で済ませたい。ぱんぱんに膨れたエコバッグふたつを提げて店を出たところで、正面から歩いてきた男を避けようとして、足を出した方向が被り、身体がぶつかりかけた。エコバッグの片方から、マーブルチョコが転げ落ちた。

 相手の男が、即座にかがんでそれを拾い上げる。俺は「ああ、すみません」と手を伸ばす。しかし男はチョコを持ったまま顔をこちらに近づけ、俺だけに聞こえる声で囁いた。

「殺してほしい人がいるんです」

 俺の体が、二十年ぶりの反射を思い出したように動いた。腕からふたつのエコバッグを滑り落とし、正面に対して半身に構える。肘を曲げ、一方の手を顔の傍へ、もう一方の手を鳩尾の前方に。瞬時に迎撃できる体勢を作った。

「誰だ」

「おっと、肩肘を張らないでくださいよ、敵じゃありません」

 男は若かった。二十代前半だろう。中肉中背で、顔立ちは垢抜けない、表情は軽薄そうで、学生を抜けて間がないように見えた。服装はラフで、Tシャツにチノパンツ。一見、武器を持っていそうではない。

 青年の背後で人影が動いた。睨みつけると、子連れの母親がスーパーに入ってこようとしただけだ。俺の目を見ると、ぎょっと顎を引き、怪訝そうに横を通りすぎていく。「すみません」と、俺は頭を下げて道を譲る。

 青年がふんすと鼻で笑う。

「他のお客さんの邪魔ですね、脇へどきましょうか」

 青年はマーブルチョコを振り、店の入り口からは離れたトイレの脇を指す。俺は頷き、エコバッグふたつをトイレ脇まで運んでから、改めて言った。

「仕事なら、とっくに引退したんだけど」

「知ってますよ。でもそこをなんとかと、お願いに来たんです」

「なんとかもなにも、銃をもう持っていない。やりようがない」

「あ、それダウト。引退後も護身用に持っておくものだって、漫画で読みましたよ」

 青年は得意げに、にかっと歯を見せて笑う。

「俺の素姓をどうやって知ったのかな。今さら、辿り着く方法はないはずだけれど」

「企業秘密です」

 俺が殺し屋をしていたのは十八歳から二十一までの、三年間しかない。若いことで依頼人にはよく驚かれたが、ライフルを見せればみんな黙った。退いてからは、かれこれ十七年になる。当時はサイトを依頼の窓口にしていたが、それも同時期に閉鎖した。

「なぜわざわざ、引退した俺に頼みに来たんだい」

「足を洗った人の方が、足がつかないでしょう?」

 用意していた決め台詞とばかりに青年は自信ありげだ。その表情に違和感を覚える。

 殺したい相手のいる人間は、もっと目が血走るか瞳孔が開くか、なんらかの切迫感を帯びているものだ。

 ひとつ、探ってみるか。


「標的は、どんな奴だい」

「お、やる気になってくれましたか」

「なってはいないけれど」

「でも、詳しくは言えません。当日に来ていただけたらわかります」

「なんだそれは。きみ、俺のスタイルを知らないのか?」

「もちろん知っていますよ。殺さない殺し屋でしょ」

「そうだ。俺が仕事をするなら、標的の調査は必須だ。殺す日時や場所も、俺のほうで指定させてもらう。そうでないなら、できないよ」

「三日後の二十三時ちょうど。大菱ポートアイランドに、標的がやってきます。そいつを始末してほしいんです」

 大菱ポートアイランド。ここから車で三十分ほどの、人工島だ。外資系の大型インテリアショップや、工場、学校、コンテナターミナルなど、広い敷地面積を必要とする施設がいくつも並んでいる。

「大丈夫、こちらの言ったタイミングなら確実に殺せますから」

「信用できない。きみは素人だろう」

 青年は面倒くさそうに髪をわしゃわしゃとかいた。それから、もう一方の手に握っているチョコに視線を落とすと言った。

「お子さんがいるんですね? だから、もう物騒なお仕事はしたくないわけだ」

 俺もマーブルチョコを見る。カラフルな楕円が散らばったデザインは、見る者をわくわくさせる。娘の架純は、最近ではろくに口をきいてくれないが、菓子の好みだけは変わらない。

「そこまでわかっているなら、大人しく引いてくれないかな」

「いやいや、家族がいるということは、断れないってことでしょう」

「家族に手を出すと、きみのためにならないよ」

 俺は青年を見つめたが、彼の軽薄な笑いは変わらない。

「わあお、その台詞、漫画みたい」

「まともに会話が通じないみたいだね」

「もう、心配性だな。大丈夫だって」

 青年はふいに口調を崩すと、自身の尻ポケットに手を回す。俺は再び身構えるが、出てきたのは、厚みのある封筒だった。律義に封印が押されたものだ。

「ここに、現金と、現場の詳しい地点が載ってるんで見といてください」

 マーブルチョコと一緒に差し出してくる手を、こちらも手のひらで制す。

「待て」

「もう、なんすか」

「きみは当日、現場に来るんだよね?」

「は?」

「俺の依頼では、引き金を引くのは、あくまで依頼人、つまりきみだ。それでいいかい」

「あー」と、青年は左上に視線をやった。「そうっすね。それでOKすよ、はい」

 それじゃこれ、と彼は封筒とマーブルチョコをエコバッグの横に差し込む。

「頼みましたよ」

 青年の向かった先の自転車置き場に、ファッショナブルなロードバイクがある。それにまたがり、彼は軽快に走り去る。

 車での尾行は難しそうだ。

 エコバッグに差し込まれた封筒を抜き取り、開く。

 俺が現役時代に要求していた、正規の依頼料ぴったりが入っていた。

 加えて一枚のメモ。大菱ポートアイランドの地図の一部、海岸の貸しコンテナ倉庫の一部に、赤い○が書き込まれている。

 それらをズボンのポケットに突っ込んでから、エコバッグを拾い上げる。指を突っ込んで底のほうを確かめると、牛乳が、地熱でぬるくなっていた。こめかみを押さえ、ふう、とため息を吐いた。

 

 俺が依頼を請け負っていた三年間に受けた依頼は十八件。うち、引き金を引いた依頼人は三人。全員が標的に銃弾を当てた。

 一人目は、四十代の男性。年老いた母親が、知り合いのお婆さんから、うまい儲け話を勧められ、金を騙し取られたという。加害者の婆さんが世界を周遊して宝石を貪っている間に、被害者の母親は、エアコンもない夏の古家で、熱中症で亡くなった。その息子が、どうにか相手の婆さんに復讐できないかと手段を探し回り、俺に行きついたという。

 彼の撃った銃弾は、標的の心臓をずいぶんと外れ、下腹部に当たった。単に外したのか、わざと外したのかは知らないが、命に別状はなかった。

 二人目は、三十代の男性。児童養護施設の出身で、かつて職員に性的暴行を受けたという。彼自身は施設を出たが、弟のように大切にしている他の子たちが今も同じ目に遭っていると知り、その職員を殺してくれとの依頼だった。こちらは股間に当たったから、わざとだろう。とはいえやはり、標的は死ななかった。

 三人目は、同居する彼氏に殴られていた女性。まだ二十歳になりたてで、彼氏は四十歳だった。いわく、どこに相談しても解決してもらえず、むしろ彼氏に話が漏れて余計に殴られたらしい。彼女だけが唯一、殺害を果たした。

 俺の二百メートル先で銃弾が標的に当たったとき、俺に罪悪感はなかった。

 俺の二百メートル先で銃弾が標的を殺したとき、やはり罪悪感はなかった。

 母からの、正義の味方ぶった刷り込みのせいもあるだろうが、理由の根幹は、それとも少し違う。俺は中一で母の手伝いをし始めたころから、この生き方を念頭に置いていた。だから、この生き方を選ぶのがもっとも効率的だし、拒む選択肢を持ち合わせていなかった。伝統芸能の継承に近いイメージで捉えていた。

 そして死ぬ標的は、俺とはかかわりのない遠くの人間だ。死んだとして、俺に悪影響はない。銃弾は足がつかないものを使っているから、警察沙汰に巻き込まれることもないし、まさか怨霊が現れて呪ってくるわけでもない。理屈で考えれば、悲しむ必要がない。

 本当にごく自然に、そう考えていたのだ。

 その価値観に罅を入れたのが、あの女性だった。

 

 殺し屋三年目、二十一歳、スーパーで買い出しを終えて店を出たときだった――俺は実家暮らしではあるものの、冷蔵庫の管理を任され、自炊もしていた。母と父は夫婦の時間を大切にするタイプで、俺を放ってよく外食に出かけたから、自分の食事のサイクルは自分で管理した方が合理的だったのだ――ともあれ店を出たところで、「すみません」と女性に声をかけられた。

「弊社をいつもご愛顧いただきありがとうございます。わたくし、マルツルマートの市場調査部の磯野と申します」

 年齢は俺より少し年上の、二十代半ばに見えた。

 目つきがきりっと鋭く、顔全体が発光していた。もちろん実際には光ってはいないのだが、そう感じるほど、燦燦たる生命力が溢れ出ていた。

 ただ、パンツスーツを着こなしていたが、細かくしわが入っているのは気にかかった。

「はあ」と俺は生返事を返す。

「少々お時間、よろしいですか。ご相談が」

 と言うから、消費者アンケートの一種だろうと思って「少しなら」と付いていった。

 しかし店の外まで行くと、セダンに乗せられ、高級な料亭の門前まで運ばれた。後部座席には、野菜や肉を詰め込んだエコバッグを載せたままだったので、俺は車から降りるやいなや、警戒まじりに進言した。

「あの、冷凍食品もあるので、早く帰らないといけないのですが」

 なにか怪しい犯罪に巻き込まれたのか、あるいは、警察に仕事を嗅ぎつけられたのか。最悪、腰に隠しているナイフを使う必要があるな、と思っていた。しかし彼女は、

「そうでしたか、これは失敬。食品は料亭にお願いして、冷やしておいてもらいますので、こちらへ」

 と早口に言い、依然として、俺の背中を料亭の門へと押しやろうとする。俺はその手を払い、さすがに語調を強めた。

「いや、要件は何ですか? それを教えてください」

 彼女は、抵抗されるとは思っていなかったのか、きょとんと目を見開くと、

「私の容姿は、あなたにとって魅力的じゃないですか?」

 ときた。

「は?」

「いえ、本当はもう少し親密になってから言うつもりだったんですが、困りましたね」と、恥ずかしがるように、頬の緊張を解いた。「実は私、家事のできそうな男性を探していたんですよ。それで、日ごろからお見掛けするあなたが、年齢も近そうですし、適任かと思って。よろしければ、私たち、付き合いませんか?」

「は?」

 と、俺は繰り返した。

 彼女は、にかっと真っ白い歯を見せて笑った。

 断る理由がなかったから、付き合うことになった。

 仕事をしていないときにやることがなかったので、その時間を彼女のために使った。

 俺は彼女に、自分の職業をフリーランスのライターだと伝えた。彼女は過度にプライベートを知ろうとはしてこなかったので、それで問題はなかった。

 彼女の友人や家族、同僚とも会った。彼女は周囲の人間から、変わり者と認知されているようだった。一方で、優秀な人とも言われていた。つまり、よくいるタイプの一般人だ。

 一方の俺は、彼女と過ごすうちに、自分がかなり特殊な世界にいるのだと自覚した。あらかじめ母からの教育で知ってはいたが、実感として学んだ。

 もっとも大きい差異は、殺人への考え方だ。

 彼女は、それを悪いことだと考えていた。ニュースから流れてくる殺人事件の報道について話したときに、「命は等しく尊い」と言い、「なぜなら、こういうニュースを見ると悲しくなるから」と言った。

 俺はそのころには、変人でありながら社会に適応している彼女を、羨ましいと思っていたから、どうにか彼女と同じ考えになれないか、と願った。

 しかし一年間の交際を経ても、価値観は変わらなかった。

 そんな折、妻から結婚を持ちかけられた。

 彼女と自分の差の本質を知るために、了承した。

 職を辞め、専業主夫となることを伝えたとき、母は反対しなかった。その頃には、もう殺し屋を継がせることには興味がなくなっていたのかもしれない。こんなもんか、と拍子抜けした。

 俺にとって呪いのように働いていた「頼んだよ」も、母にとってはさほど重い意味のない一言だったらしい。

 しかしおかげで、片足の裏が初めて、一般人のわだちを踏んだ気がした。

 

 

 帰宅後、手早く食材を冷蔵庫にしまう。整理をしたところ冷凍庫がぱんぱんだったので、今夜の夕飯が決まる。このあいだ冷凍しておいた魚のフライと、痛む前に食べておいた方がいいゴボウを使った豚汁だ。

 研いだ米を予約機能でセットしてから、ソファにどしん、と腰を沈めた。

 頼みましたよ、とあの青年は言った。

 あれは、脅しだ。投げ出せば、俺の家族に手を出すこともできるぞ、という。俺もまた、家族には手を出すなというような牽制はしたけれど、彼が怯んだようには見えなかった。

 とはいえ、依頼を受けるつもりはない。

 それは、俺が彼女から遠のく選択肢だからだ。

 依頼人を説得し、依頼を取り下げさせるのが一番だろう。

 だが彼には、依頼人として違和感がある。

 五分間悩んだ末、もう頼ることはないだろうと思っていた番号にかけた。二度目のコールの途中で彼は出た。俺が「こんばんは」と言うと、耳元で「どうもどうも」と軽快な声が返ってくる。

「びっくりしたよ。何年ぶり? きみから電話なんて」

「八年ぶりです。前は、息子のために臓器を見つけていただいたときですから」

「ああ、あのときね。手術が成功して、本当によかった」

「ええ、本当に、仕入れ屋さんのおかげです。感謝してもしきれません」

「いんや、全然気にしないで、きみのお母さんには助けてもらわなきゃ、僕は父に殺されてたかもしれないからね」

 冗談のように快活に、仕入れ屋さんは笑う。

 彼は母の元依頼人だ。暴力ばかりを振るっていた自分の父親の殺害を母に依頼し、自らの手で殺害を完遂した。そのことに強く恩を覚え、母の役に立てる人間を目指した結果、金額次第で何でも仕入れる仕入れ屋を始めた。

「それで、今回の発注は? 情報、物、生き物の仕入れなら追加料金ね」

「情報です。俺に殺しを依頼した人物の素姓」

「へえ、ジュニアくんの素姓がバレたの? ちょっと信じられないな」

 仕入れ屋さんは、俺をジュニアくんと呼ぶ。

「俺も信じられません」

「相手の特徴は?」

「俺のもとに現れた人物は、おそらく二十代前半、中肉中背の男性。奇抜な色のロードバイクに乗っていました」

「それだけの手がかりじゃ、さすがに見つけられないけれど」

「はい。ただ俺は、彼自身が依頼人でない可能性を考えています。ここからはあくまで俺の主観ですが、違和感を覚えた点がふたつ」

「言ってみて」

「まず青年は、俺の居場所を特定して依頼してきたのに、俺に家族がいることを知らない様子でした。買い物袋に入っていたマーブルチョコを見て、はじめて知った風だった」

「あ、いいねえマーブルチョコ。僕は一気にかき込む派」

「俺はタッパにすべて出して、好きな色の順番で食べる派です」

「なにそれ、気持ち悪~い」

「そうですか? 食事にランダム性を求めていないのです」

「お菓子は食事じゃなくて娯楽でしょ」

 こういう無駄話は、無駄ではなくて仕入れ屋さんの脳を活性化せるためにある。彼は、どんな内容であれ会話が長くなるほど、頭が冴えてくる性質がある。

「確かに変だね。わざわざ住所まで割り出したのに、ちゃんと尾行をしたわけではない。つまり、青年はきみの調査を既に済ませた誰かの指示により、きみに接触してきた」

「その可能性が高く思えます。違和感のふたつめは、青年が初対面なのに、正規の依頼料を手渡してきたこと」

「依頼料の相場を知っている人物って、誰がいるの?」

「過去の依頼人だけです。母か、俺に依頼をした人間」

 当時、母および俺への依頼は、公式サイトからおこなう形式だった。

 サイトは一見、まっ白いページに404 not foundと書かれているだけだが、カーソルを画面上で動かしてみると、背景と同化した白文字のリンクがあることに気づける。当時としても、子供騙しな仕掛けだった。偽装工作というよりも、母の悪趣味な遊び心だ。

 リンクをクリックすると、メールフォームが現れる。そこに、標的についてできる限り詳細な情報と、依頼人自身の本名、年齢、性別、職業、連絡先、また、このサイトをどこで知ったか、といった内容を記載して送る。

 届いたメールの中から、依頼を受けられそうだと思うものにのみ、報酬額と、定型文的な規約の説明を書いて返信する。ライフルを自分で撃たなければならないなどの諸注意も、そこに記載数する。あとは当日に会って、実行に移す。

「サイトはもう閉鎖済みだよね?」

「ええ、二十年ほど前に」

「サイト以外の方法でコンタクトを取ってきた人は、今回が初めて?」

「はい」

「なら、二十年前の依頼人が、当時きみに接触した段階で、なんらかの情報を得ていたと考えるのが自然だね」

「俺もそう思います。ですが、二十年前の情報から辿れるものですか? あの頃から苗字も住所も変わっています」

「もとの情報がわかっているなら、町の探偵にでも頼めばその後の経緯は、五十万円程度で簡単に辿れるよ。当時、きみの情報を得ようとした者について心当たりは?」

「パターンがあり過ぎて絞れません。万一警察沙汰になったときのために協力者の素姓を知っておきたかったか、自分が殺される可能性が怖くなって情報的優位に立ちたかったか、単なる好奇心か――しかも、このいずれのパターンであれ、二十年ぶりに接触してきた理由がわかりません」

 少なくとも、殺しの依頼というのは方便だろう。

 俺のスタイルを知っているなら、標的を教えず場所も時間も指定するなんてことはあり得ない。そうすることで達成したい他の目的があるはずだ。

「動機がわからないなら、情報源から探ろうか。殺害決行当日、依頼人に渡る個人情報をできるかぎり詳細に教えて」

「大体は仕入れ屋さんもご存知のとおりですが」と前置きをして挙げる。

 直接会うわけだから面は割れている。当然、容姿からわかる性別、だいたいの年齢、身長、体重、靴のサイズなども。だがそれ以外は、思いつかない。

「車は? たしか、依頼人を送迎するよね」

「はい、レンタカーで」

「レンタカー屋に提出する運転免許証は、本物だよね?」

「もちろん」当時としても、偽造カードでどうこうできるほどセキュリティは甘くない。

「あるとしたら、そこかな。犯人は、店に提出された個人情報をどうにかして盗んだ」

「店員でもない限り、無理じゃないですか?」

「じゃあ、依頼人も店員のひとりだったのかも」

「本気で言ってます?」

「はは、可能性はいつだってゼロじゃないさ。なんて言っている間に、青年のほうの辿り方についてひとつ、ぴんときたことがあるよ。ジュニアくん、ウーパーって知ってる?」

「いえ」

「『ウンパン.com』っていう、簡単に言うと、運び屋とクライアントの仲を取り持つサイトがあってね。運び屋希望者は、そこに個人情報と、働きたい時間、希望報酬額、NGなブツなどを書いておけば、条件に合った運搬業務を割り当ててもらえるんだけど」

「マッチングというやつですか」最近、飲食店の出前などでよく見かける仕組みだ。

「そうそう、雇われるのは大抵バイト感覚のアマチュアばかりだから、ウーパールーパーみたいに無害そうな顔をしてるって点と、ウンパンのもじりで、ウーパーって呼ばれてて」

「バイトって、大事なブツの運搬をそんな人に任せるんですか?」

「そういう子のほうが、怪しい経歴がないから怪しまれないんだよ。最近じゃツーリング趣味のライダーから、小型船舶を持ってる漁師まで、小遣い稼ぎに走ってるって話だよ」

「信じがたいですね」

「けど、まじなのよ。だから今回きみを襲った青年も、そのウーパーの可能性があるんじゃないかと思ってさ」

「なるほど」

「だとしたら、仕入れ屋業界と運び屋業界は密接だから、交渉次第で、きみの住所の近くに住んでいるウーパーのデータを貰うことはできるかもしれない」

「助かります。青年と会った具体的な住所を、後で送ります。お金は心配しなくてよいので、ぜひお願いします」

 現役時代に稼いだ金は、投資に回したきり放置しているから、まだ余裕はある。

「おっけー。また連絡するね」

 ありがとうございます、と頭を下げ、電話を切った。

 時計を見ると、十五分が経っていた。

 慌てて立ち上がる。しなければならないことは沢山ある。部屋の掃除に、ベランダで育てている植物の水やり、トイレ掃除を始めてからトイレットペーパーが残り二ロールしかなことに気づいたり。ああそうだ、スーパーの帰りに薬局に寄ろうと思っていたのに、頭から飛んでいた。がらにもなく動揺していたのだろう。またあとで行かなければ。

 

 そうこうしていると、あっという間に子供たちの帰宅時間だ。続いて親父、最後の理佐は十八時ごろに帰ってくる。俺が出会ったころよりも、いくらか質のいいパンツスーツを、あの頃よりも小慣れた様子で着こなしている。そこにしわがないことが、俺には気持ちいい。

 鞄をダイニングの椅子に置く理佐に声をかける。「おかえり、お疲れ」

「ただいま、今日のご飯なに?」

「食物繊維が欲しいって言ってたから、豚汁と、白身フライ」

「いいねえ」

 理佐の帰宅を察知し、各部屋から住人が戻ってきて、椅子に座る。「みんなごめんねー待たせて」と理佐もジャケットを脱ぎ、着席する。全員でいただきますをする。

 ごちそうさまは、それぞれのタイミングだ。他の家族が食べ終わり、俺と理佐だけが食卓に残ったところで、彼女から言われた。

「今日、なにかあった?」

 豚汁をすすりながら唐突に訊いてくるものだから、俺は魚のフライを喉に詰まらせそうになる。「どうして?」

「なんとなく。雰囲気がいつもと違うなって」

 理佐にはこの手の、野生の勘じみたものが備わっている。

「ええと、あれじゃないかな。朝、鵜飼さんと喋ったから」

「あら、珍しい。親しかったっけ」

「いや、たまたま、エレベーターが一緒になったから」

「なに話したの?」

 略奪愛のことは口にするのが躊躇われたので、「彼、結婚してるんだけど、奥さんに先立たれたらしくて」とぼかした。「そんな込み入った話を?」と理佐は苦笑しながら、「でもよかったじゃん、逆よりは」と言った。

「逆?」

「自分が先に逝っちゃわなくて。私だったら、あなたを遺していくのは心配で、成仏しきれないもの」

 想像してみて、頷く。

「たしかに、俺ときみなら、きみが生き残ったほうが安心感がある」

「でしょう。なにせ私の結婚相手の条件は、私をサポートしきって死んでくれる人だから」

「そんな、元も子もない選び方だったのかい」

「あら、プロポーズのときに言ったでしょう? 私を一生支えてって」

 たしかに言われた。

「あれは、あなたが生きている限り私は死なないって誓いでもあるから」

「とても心強いね」

「だから、その時が来たら安心して死んでね」

「まだまだ先であってほしいな」

 と、軽口のつもりで言ったが、口にしてみると本当に、そうであってほしいと思う。

 この感情は何だろうか?

 俺が理佐と近い存在になりたいことと関係している。

 愛情か? 愛情ある夫は、妻に看取られたいと思うのか、看取りたいと思うのか。そんな単純な死生観もわからない。

 架純が、好きな芸能人がゲストで出ているとかでソファーでテレビを見ていたが、ちらりとこちらを向き、目が合った。もの言いたげにも思えたが、すぐに顔を逸らされた。

 

10

 夜、ベッドに入り、瞼を閉じたあと、謎の依頼人が情報を得た方法について考えた。

 レンタカー屋を通じてなら、俺の借りた車のナンバーを控えて、片っ端から近場のレンタカー屋に電話をかければ、店舗の特定はできるかもしれない。

 しかし、そこから先がどうもならないように思う。たとえば、俺の家族を名乗って店先に行こうが、身分証明書もない人間が、顧客データを見せてもらえるわけがない。そもそも家族だろうと、どういう口実で資料の提示を頼むかもわからない。警察沙汰にはしたくないだろうから、警察を騙ったわけでもない。

 ただ、当時についての記憶を深く深く掘っていると、ふと、思い出す場面があった。

 俺は家の電話を受けている。発信者はレンタカー屋の店員だ。

『車を返した際に、ぬいぐるみを置き忘れませんでしたか』

 しかし俺は、そんなものを置いていない。返すときに車内の隅々まで確認したから間違いない。そう答えて切る。

 あれは一体、なんだったのか?

 眠れないので、妻を起こさないようにベッドから抜けて、リビングに行った。

 保安灯を点け、インスタントコーヒーを入れて啜っていると、がちゃりとドアが開いた。パジャマ姿の架純だった。

「びっくりした。どうしたんだ、こんな時間に」

「喉が渇いただけ。そっちこそどうしたの」

「いや、別に、俺も喉が渇いて」

「嘘。それでコーヒーなんか飲むわけないじゃん」

「ああ、そう、そうだな。眠れないから、いっそ飲んでしまおうかと」

「意味不明」

 架純は興味なさそうに漏らすと、俺の座っているダイニングテーブルの横を過ぎ、冷蔵庫を開けた。リンゴジュースを取り、キッチンの水切りラックにあったさくらんぼ柄のマグカップに注いで、シンクの前に立ったまま飲んだ。それを横目に、見るというほどでもなく見ていると、

「お父さんってさ」

 と架純が言うものだから、俺は何か気取られたのかと身構え、「なんでしょうか」とついかしこまった。

「お母さんから声をかけられて、付き合ったんだよね」

「そうだね」

「しかもプロポーズまで、お母さんだったんだね」

「ああ、夕食のときの話か。うん」

「なんで自分からしなかったの」

「母さんの方が、そういうことが手早いんだ。決めたら即行動。知ってるだろう?」

「でも普通、男の人にしてほしいものじゃん」

「それは個人の嗜好の差だよ、男女の性差じゃない」

「でもお父さん、なにも自分で決めてないよね? いつもお母さんが決めるじゃん。この家もそうでしょ。車もそう。私たちの名前だってそうでしょ?」

「ああ」

「それっておかしくない? 夫婦って対等なんじゃないの」

 どこか母親に似てきた迫力に、顎を引く。

「あのね、これは役割分担なんだ。意思決定の得意な人がリーダーになるだろう? 同じように、母さんの判断が正しいことが多いから、その役目をしてもらってる」

「残された家族を養うのも、お母さんの役割?」

「そうだ。どんなにきれいごとを並べてもやっぱり、母さんの方が心強いだろう」

「そんなことはわかりきってる」

「わかりきってるのか」そこまで言われると、それはそれで少し凹むが。

「じゃあ仮に、私が将来ダンサーになりたいと言ったとして」

 唐突な話題の転換に「え」と思わず声が出る。「なりたいのか?」

「仮定の話だよ」

「なんだ。いや、もちろん、どんな夢でも応援するよ」

「なら、お母さんがそれに反対したら? お父さんはどうするの」

 む、と俺は、ずっと握っていたコーヒーカップをローテーブルに置き、顎に手を当てた。

 難しい問題だ。理佐が反対したというのなら、そこには理由があるはずだ。だが、架純が選んだのなら、それにも理由があるに違いない。

「大事なことだから、双方の意見を聞いて、決めると思う」

「そこが違うんだよ。意見を聞くんじゃなくてさ、もしも本当に、私の将来を真剣に考えているなら、ダンサーについて自分で調べてみようと思わない? それで得た自分なりのデータをもとに、やめるよう説得するなり、応援するなり、するんじゃない?」

 俺は目を見開いた。

「たしかに、そのとおりだ」

 はあ、と架純はマグカップに、蛇口の水を灌ぐ。

「父さんは、役割分担をしているというより、責任を取らない人生を選んでいるんじゃない?」

 その水で口を一度すすいでから、カップをシンクに置き、架純は部屋へと戻る。

 ドアの向こうに消える架純に、「おやすみ」と声をかけたけれど、返事はなかった。

 

 11

 妻が起きる前にはベッドに戻った。二時間だけ眠った。

 六時に置き、朝の支度をしている最中、キッチンに置いてあったスマートフォンが震えた。仕入れ屋さんから、電話番号へのショートメッセージだった。『例の情報がわかった。折り返してきて』

 あの青年の情報だ。全員の外出を見送ったあと、即座に電話をかけた。

 仕入れ屋さんは、テンポよく情報を伝えた。

「兵頭勇人、二十四歳、フリーター。地方の平凡な大学の経済学部を一年留年して卒業後、大学時代に働いていたコンビニでアルバイトを続けている。収入の大半はパチンコとたばこに消費するため、依頼報酬を払えるほどの資産はない。やっぱり、バックに誰かがいるようだね」

「ありがとうございます。なら、兵頭に黒幕を訊くのが一番早いですね」

 仕入れ屋さんが、住所を教えてくれる。

 うちから車で約一時間のアパートだった。

「ただし家を訪ねて交渉したり、無理やり連行することは難しいだろう。バイトの出退勤時を狙うのがいい。彼のシフトは月火水、金土の朝六時から昼の十四時まで。そして今日は水曜だ」

 壁掛け時計を見る。家事を急いで済ませ、十四時前にはあちらについたとして、事はスピーディに済ませなければならない。

 妻が帰ってきたときに家で「おかえり」を言わなければならないからだ。

 これは妻と結婚したときに夫婦間で唯一、設けられたルールだ。「仕事から疲れて帰った私をいつでも優しく出迎えてほしい」とのことだった。このルールはさらに、子供ができたさい適用範囲が拡張された、つまり、子供が家に帰ったときにも父親がいるように、と指示された。今日もっとも早く帰宅するのは、八尋だろう。終わりの会のあとに直帰すれば、十六時過ぎには家に着く。兵頭青年と話せる時間は、十四時から十五時の一時間。

 その間に、手っ取り早く、指示者の素姓を訊き出さなければならない。

「拳銃くらい持っていく?」

 以前持っていた銃は、母が仕入れ屋さんから買ったもので、引退するときに仕入れ屋さんに引き取ってもらった。とはいえ、あれはライフルだから、手元に残っていたところで、こういう状況での護身具にはならないが。

「ゴースト銃くらい、今の時代なら十万ちょっとで用意できるよ」

「ゴースト銃?」

「シリアルナンバー無しの銃。正規の製造品じゃなくて、パーツを買って自分で組み立てるんだ。足りないパーツは3Dプリンタを使って自作する」

「それ、日本の話ですか」

「未来が来てるって感じだよねえ」

「世紀末という感じです」

「あはは」

「もう銃には関わらないと決めたので、結構です」

「そ。じゃあ、せめてスマホくらい送っておくよ。まっさらなシムフリーのやつ。もしも警察沙汰に巻き込まれたときは、僕の履歴ごと処分して乗り換えて。料金は、全部合わせて二十万にまけとくからさ」

「ありがとうございます。それと、ついでにもうひとつお願いなのですが」

「うん?」

 

12

 家事を、いつもの一、五倍速で済ませて、十二時過ぎに車を出した。

 十三時半には、兵頭の務めるコンビニを見つけた。車を敷地内に入れる。白いフェンスで囲まれたごみ収集ボックスの脇に、奴のロードバイクを確認できた。

 フェンスには扉があり、ダイヤル式の鍵がかけられている。その扉からもっとも近い駐車スペースに車を停め、彼を待った。

 十四時十五分、彼が店から出てきた。なぜ十五分も遅れるのか、と見れば、口元にソースが付いていた。バイト上がりに食事をしていたようだ。お気楽なことだ。

 兵頭は車内の俺に気づくことなく、フェンスのドアを開け、ロードバイクを押して出てきて、またドアを閉める。ナンバーキーを閉じ直している彼の背後で、俺は車から降り、彼の背後に忍び寄ると、腕を後ろ手にとった。

「わ」と驚きの声が上がるが、その耳元に口に寄せ、「動くと折る」と告げる。「いくつか質問がある。危害を加える気はない。車に乗れ」

 身じろぎをしようとしていた彼の動きが、抵抗したいのかしたくないのか、緩慢になる。

 兵頭を後部座席に押し込んだ。そこでようやく、彼は俺の顔を確認したようで、「あれ、あんた」と気の緩んだ声を出した。一度は上手くしてやったおじさん、と舐めたのか、車の中に他の仲間がいないことに安堵したのか、わからないが、ともかく全身の力を抜いた。その一瞬に、俺は兵頭の太ももに、あらかじめ持ってきていたボールペンを、彼のズボンの上から深く刺した。

 ああ! と、兵頭は今までで一番の大声を出すが、そのときにはドアを閉めている。俺は彼のロードバイクを手早くトランクに積み込み、俺は運転席に戻り、発車した。

 

13

「なんで、なんで」

 と恨めしげな声で、兵頭が言う。バックミラー越しにはよく見えないが、太もものボールペンは抜いたようだ。彼は患部よりも付け根側の肉を、両手でぐっと力強く掴み、少しでも痛みを抑えようとしている。

「それは、なんでこんなことをするのか、という意味かな。それとも、なんでお前の居場所がわかったのか、という意味かな」

 車は大通りを走る。

「どっちもだよ!」彼は歯を食いしばる。

「居場所がわかったのは、そういう知り合いがいるからだ。目的は、さっきも言った、訊きたいことがあるからだ」

「他の、駐車場にいた客に見られたぞ。早く俺を解放しないと、警察に連絡がいくぞ」

「たとえそうだとして、その客はまず店員に報告するだろう。店は、きみのスマートフォンに安否確認の連絡を入れる。きみはもちろん『友人のサプライズでした、お騒がせしてすみません』と答える。そうしない場合、きみはもっと痛い目に遭ってしまう」

「脅しかよ。俺は今、このボールペンを、あんたの背後から、首に突き刺すことだってできるんだからな」と、兵頭はかがみ、ボールペンを拾ってミラー越しに見せてきた。

「本当かい、それはすごい。やってみるといい」

 ミラー越しに目が合う。彼は狼狽し、目を逸らす。結局は暴力を実行に移すことをやめたようで、尻すぼみな声で「質問ってなんだよ」と漏らす。

 俺は兵頭の家の近くの路地へ入り、ゆっくりと走らせながら言った。

「依頼主が何者かを教えてもらえるかな」

「教えた途端、俺は用済みで殺される、とかじゃないだろうな」

「当たり前だろう、俺は殺さない殺し屋だ」

「そうだよ、だから危なくないって聞いて、やったのに」

「本気で言っているのかい? いくら殺さないとはいえ、こんな仕事が危なくないわけがない」

「ちくしょう、詐欺だ、こんなの、ちくしょう」

 赤信号で止まっている間に、スマートフォンを確認した。十四時二十二分。

「後悔はいいから、依頼主の情報を渡してくれ。やりとりの履歴は残っていないかな」

「消せって指示だったから、消した」

「顔は? あの封筒を受け取るときに会っただろう」

「女だった。四十歳くらいの」

「女?」

「でも本当に、知ってるのはそれだけだ」

 兵頭が早口に言う。「俺は、あんたの特徴を聞いて、あのスーパーを張り込んで探して、封筒を渡すようにと言われた。そのとき、依頼人のふりをすれば報酬をはずむとも言われたから、そうした」

「いくらで受けた?」

「五万」

「たった五万で、俺と家族はこんなことに巻き込まれたのか」

「たとえいくらだろうと、殺人を引き受けるような奴に言われたくないぞ」

「ひとつ疑問なんだが」

「なんだよ」

「自分と無関係の人間を殺すことが、なぜそんなに悪なんだい?」

 彼は、耳慣れない言語でも聞いたように唇を歪める。

「なんだそれ。小学生向けの、道徳の授業かよ」

「大人でもわかっていない人はいる。だから教えてほしいんだ」

「嫌だよ、気持ち悪い」

 彼が目を逸らす。仕方がないので、ため息を吐いて話題を戻した。

「この件に、二度と関わらないと約束してほしい。依頼主からまた連絡があっても応じないように。また、警察に俺のことを話すような事態は避けるように」

 兵頭は目を逸らしたまま、「ああ」とうなだれた。

 それから、兵頭を自宅のアパート前まで送り届けた。足を引きずりながら、彼は帰った。

 ボールペンは後部座席の足元に転がっていた。それをつまみあげ、足元の側溝に捨てる。

 シートには案の定、兵頭の血が付いている。逃げられないようにと脚に刺したが、失策だったろうか。掃除が間に合うだろうか。

 ひとまず急ぎ車をUターンさせ、家の方向へと飛ばす。

 兵頭は、当日、現場に来ない予定だった。

 なら、依頼人が直接来るつもりだったのだろうか? 順当に考えればそうだろう。

 俺に依頼したことがあり、俺に素性を知られないまま、俺を呼び出したかった。しかも標的については謎のまま、場所と時間だけを指定して。

 まっとうに考えるなら、目的は殺害依頼でなく、俺への復讐だ。

 しかし、なぜ?

 殺さない殺し屋というシステムは、ほとんどの依頼人から感謝されていたはずだ。いや、のちに罪悪感に苛まれた人間はいたかもしれないが、少なくとも、俺が恨まれる筋合いはない。彼らが依頼をし、選択肢を受け取り、彼ら自身が引き金を引いた。そのすべてのステップで、彼らは思いとどまることができる。実際、ほとんどの者は思いとどまり、発砲した人間のうち二人も、殺しはしなかった。もしも、逆恨みであれ俺を恨む人間がいるのだとしたら、それは唯一、標的を銃殺した依頼人ではないか?

 彼女は当時二十歳、今年で四十になる。

 名は、クリハラ。

 ほとんどの依頼人に感慨のない俺だが、クリハラに関しては、当時の俺が二十一歳で、彼女は二十歳だったから、強く印象に残っている。自分の倍以上も年齢のある彼氏からの暴力を受けていると聞いたとき、母から投げられたナイフを思い出し、シンパシーめいたものさえ感じた。

 彼女が彼氏を撃ち殺したとき、彼氏は河川敷で、婚活バーベキューをしていた。クリハラと俺は河川沿いの土手から、彼を望める位置にいた。距離はそこそこあったが、彼女は狙撃を成功させた。胸を見事に射抜いた。俺は、三年間のキャリアの中で初めて目にした、成功シーンに驚いた。こういうときは両手のひらをぶつけて喜びを表した方がいいのだろうか、と隣を見たが、彼女は顔を青くしていた。

 よくよく考えれば、はしゃいでいる暇などない。クリハラの体を引きずって、レンタカーに載せ、ライフルもケースにしまって積み込んで車を出した。

 報酬を受け取り、適当な裏路地で彼女を降ろすとき、「これでよかったんでしょうか?」と訊かれた。「知らない。その答えは料金に含まれていない」と言って、別れた。


14 

 途中、百均に寄ってタオルを二枚買い、一度マンションに戻った。一階の郵便受けを開くと、手のひらサイズの小包が届いていた。仕入れ屋さんからのスマートフォンだ。一度家に帰り、タオルのうち一枚を湯に浸し、漂白剤を掴んで再び家を出る。一階のスマートフォンを回収して、車に戻り、スマートフォンをダッシュボードに突っ込んでから、後部座席の血を、濡れたタオルで浮かす。その後、乾いたほうのタオルで叩いて拭く。最後に漂白剤をかけ、仕上げた。

 完璧に消えたとはいいづらかったが、気づくほどでもない。二枚のタオルと、小包の包装を、最寄り駅のゴミ箱に捨てた。

 再びマンションのエレベーター前に立ったとき、十六時七分だった。

 背後から足音がした。振り返らないようにしていると、声をかけられた。

「あれ、父さん」

 振り返ると、八尋だった。

「おう、おかえり」

 さすがに動揺したが、自然な表情を心がける。

「どっか行ってたの?」

 八尋の目は、俺の手に握られた漂白剤を見ている。家から持ち出したものだ。

「ああ、車のシミが気になって。軽く掃除をね」

「ああ、それで。手に汚れついてるよ」

「うん?」

 指差された右手を返し、手首の裏を見る。直径五センチほどもある、赤黒い血痕が固まっている。兵頭に腿にボールペンを刺したときのものだ。

「ああ、ほんとだ」と平然ぶって答え、爪で擦るが、うまい言い訳が出てこない。「新しいソースを作っていたんだ」と、口が勝手なことを言いだす。

「ソース?」

「そう、今夜のハンバーグのソース。いつもと趣向を変えて新しい味にできないかなって、いろいろな調味料を混ぜて、試行錯誤を」

「自家製ソースかあ。いいね、楽しみ」

 エレベーターが九階に到着する。八尋が開ボタンを押してくれているから、俺は先に出る。鍵を取り出し、八尋に先を譲る。

 今夜はパスタのつもりだったのに。ミンチはあったろうか? ソースも、それらしいものを考えなければ。

 夕食にはどうにか帳尻を合わせた。八尋も理佐も気に入ってくれたようで、親父でさえ美味いと呟いていたが、架純だけは不機嫌そうに黙々と食べていた。

 

15

 翌日が、依頼人から指定された日だった。約束の時間は二十三時だ。家を抜け出すには怪しすぎる。うまく理由を付けるしかない。

 昼間はいつもどおりに過ごし、夕食後、片づけ中のキッチンで、手伝ってくれている理佐にだけ聞こえるよう言った。

「悪いんだけど今日、夜、出かけてもいいかな」

 前回、野生の勘で気取られた失敗があったので、いっそう自然体を心がける。

「なに? 急に」

 見つめてくる妻の瞳に、疑念はない。単純に、驚いている様子だ。

「実は最近、スマホの調子が悪くて。新しいのを受け取りに」

「夜に?」

「地域型のフリマアプリで調べてたら、ちょっと遠方なんだけど格安で売ってくれる人を見つけてさ。その人の近所まで受け取りに行くことに」

「ふうん、別にいいよ。気を付けてね」

「ありがとう。できるだけ早く帰るよ」

 みんなが静かになった二十二時頃、家を出た。

 ひさびさに腕時計を締めた。若い頃、仕事をするときにはそうするのが習慣だった。

 最近の夏には珍しく、空気は冷えていた。大人しい夜だ。玄関のドアが閉まる音、エレベーターのドアの開閉音、マンションのガラス戸を押し開くときの軋みや、車のドアの金属音に、エンジンの唸り、すべてが澄んでいて、空気の弦を弾くみたいにしんしんと響いた。

 高架を抜け、大菱ポートアイランドへ入る。

 居住者の少ない人工島だけあって、夜の道はずいぶんと暗い。海という黒い怪物の胃の中に、自ら入っていくような不安感もある。

 海浜公園の駐車場に、車を停めた。

 降りると、潮の香りが立っていた。すん、と一度息を吸い、ふうと吐く。

 腕時計を見る。時間に余裕はある。

 目的地まで、十五分ほど歩く。

 貸しコンテナが理路整然と並べられた区画だ。入り口には門があり、施錠されている。車両用通路には監視カメラがあるから、フェンスをよじ登って死角から侵入する。入ってしまえば、もうカメラはない。細胞膜のように規則正しく並んだコンテナの隙間から、海風が吹いている。

 指定されていた、Gの十二番コンテナ前に着く。


16

 時刻は、ちょうど二十三時になったところだ。

 背後から、こつ、こつ、とヒールの音がアスファルトに響く。振り返る。

 髪を胸元あたりまで伸ばした、ひとりの女性がやってくる。背後の貨物船発着港からの照明を逆光のかたちで受け、影がこちらに長く伸びていた。

 五メートルの距離まで来たところで、ようやく、コンテナの整理番号「G12」を照らす照明のおかげで、相手の顔がまともに見えた。

「クリハラか?」

「覚えていてくれたんですね」

 と彼女は微笑む。

 俺の記憶の中にいる彼女は、素朴な二十歳の、女性というよりは女の子だったが、今目の前にいるのはまぎれもなく品を感じさせる、女性だった。面影はあるが、大人びたブラウスにロングスカートを履き、口元が穏やかに微笑んでいる。

 彼女はスカートのポケットを叩いて見せ、録音機の類が入っていないことを示す。俺も、同じようにする。

「なんのために、こんな呼び出しをしたんだい?」

「そこから話しちゃったら、すべて台無しです。夜は長い。少し、話をしましょう」

「それも悪くない提案だが、うちで家族が待ってる。手短に済ませたい」

「そうでしたね。あなたが結婚して、まさか子供までいるとは、驚きでした」

 反射的に、鵜飼氏の言葉が思い出される。きみが僕に感じている、蔑みや同情のすべてが、罪から目を背けた報いだよ。俺は今、誰かから蔑まれる立場だろうか? あるいは、同情される立場だろうか。

「やはりおかしいかな、元殺し屋が妻子持ちは」

「ええ、私からは、あなたが人を愛せるタイプには見えなかったから」

 俺は目を瞠る。

「鋭い。今だって、愛しているかはわからないよ」

「え、わからない人と、結婚して子を作ったんですか?」

「わかりたいから一緒にいるんだ。逆に訊きたいのだけれど、世の人間は、完全に愛情を理解してから結婚しているのかい」

「さあ。私もそれがわからなくて、試している最中ですから」

 言われて、彼女の左薬指に指輪が嵌っていることに気づいた。結婚指輪ではなさそうなデザインだが、ただのファッションリングというふうでもない。

 首を振る。話が脇に逸れている。


17

「話というのは?」

「私があなたに、どうやって辿り着いたか、知りたくありませんか」

「教えてくれるのかい? なら願ったり叶ったりだけど」

「今日は、いろいろなものを清算するためにここにいますから」

「今後の自衛のために、聞かせてくれ」

 彼女は嬉しそうに口角を上げて笑う。頬の端に、右の八重歯だけが少し覗く。それで、二十年前の彼女は一度も笑わなかったのだと気づいた。

「まず、レンタカーのナンバーを控えておきました。あのとき、殺し屋さんが載ってきた車のナンバーは『わ1592』でしたね」

「いちいち覚えていないな」

「近場のレンタカー屋に片っ端から電話をかけて、こう言うことにしました。『両親の慰安旅行に行くために車を借りたい』『ゲンを担ぎたいので、両親の誕生日である一月五日と、九月二日にちなんで、ナンバーが1592の車を借りたい』」

 俺は眉間を狭める。

「それ、怪しまれないのかい?」

「まず大丈夫ですよ、車のナンバーを指定するだけですから。該当車両は、運よく一件目で見つかりました。その車を借りた際、お店の人に『前の人の忘れ物がありました。お子さんのものだと思うので、連絡してあげてください』と、ぬいぐるみを差し出します」

「ぬいぐるみ」

「中には録音機が仕込んであります。店員さんは、そのぬいぐるみを手元に置いて、あなたに電話をかけることになります。『シキミミキオ様のお電話でしょうか』」

 式見幹夫は、俺の結婚前の名だ。

「あなたは当然、そんなぬいぐるみは知らないと回答しますから、ぬいぐるみは店に残ります。後日、私が改めて店に行き、『ぬいぐるみは妹の落としたものでした』と言って、回収します。これで、あなたの氏名を手に入れられます。そこからは、単純です。当時はまだハローページがありましたから、シキミの名で住所を検索します。全国にシキミと読める苗字は、式見が七十件、食見が十六件、色見が十件。どこを見てもミキオの名では登録されていなかったので、上から順に電話をかけていきました。受話器を取った相手に適当な市場調査アンケートを名乗り、『シキミミキオ様はいらっしゃいますか?』と鎌をかけます。六十五件目でヒットしました」

 俺は当時、父母と一緒に実家で暮らしていた。仕入れ屋さんの言葉を思い出し、苦笑する。

「当時の住所がわかれば、あとは町の探偵でも現住所を辿るくらいはできる」

「そう、さすが、お詳しいですね」

「謎がひとつ解けて、すっきりしたよ」

 そして、今後の心配も減った。同じことをできる人間は、もう今となっては他にいないだろう。彼女は嬉しそうに、口角を上げている。彼女の八重歯は、常人の考えの及ばない自我を持っているようにも思えてくる。

「しかし、少し狂気的だな。どうしてそこまでしたんだい」

「あのとき。私があの男を射殺したあと、あなたに引きずられるように車に乗せられながら、考えました。これでよかったのかと」


18

「人を殺してよかったのか?」

「ええ、あなたに尋ねると、その答えは料金に含まれていない、と言われた。ああ、あなたもきっと答えを知らないんだろうな、と思いました」

 図星だ。

「それで、なんだかあなたのことが知りたくなった。答えを知らないのに、なぜあんな仕事をしていられるのか」

「それだけの理由で、六十五件も電話したのかい」

「ひょっとして、これも愛情の一種かもしれません」

「いや、単純に、縋るものを求めているだけだろう」

「ジョークですよ」

「結論は出たのかい」

「人を殺してよかったのか、ですか」

「そうだ」

「もちろんです、殺し屋さん」

 と彼女は、風に揺られる長い髪を耳にかける。

「私と一緒に自首しませんか?」

 ぴく、と俺の右手の人差し指が動く。

「人は殺してはいけなかった、という結論かな?」

「そうなります」

「しかし、なぜ今さら」

「逆です。二十年しないと確かめられなかったんです。あの男を殺してよかったのか、という命題に答えを出せない理由は、加害者であるあの男の立場になれないからに付きます。そこで私は、ひとつの方策を思いつきました。私があの男と同じ四十歳になったとき、あの男と同じように、二十歳の女の子と恋人関係になるのです。そして、暴力を振るう気になるかを確認する」

 耳を疑う。

「恋人になったのか?」

「はい。現在、同棲しています」

 彼女の目は笑っていない。口元はほがらかな八重歯を覗かせているのに。

「暴力は」

「振るっていませんよ、見くびらないでください」

 ほっとする。ほっとした自分に驚いた。

「ただ、四十歳という年齢が、あの頃に思っていたよりもずっと不完全ということは実感できました。彼女がトイレットペーパーを補充していないだけで、いらっとしたり、脱いだ服を床に放置しているだけで、物に当たりたくなったりしました」

「結論は?」

「あの男は、殺されるほどのことはしていなかった」

 なるほど、と息を長く吐く。

「だから、二十年越しの自首に踏み切ろうと思ったわけだ」

「ええ、しかしこの自首は、あなたが証言してくれないと成り立ちません。なにせ当時の口座も、サイトもありません。弾は警察が回収しましたが、それを撃った銃の在処も、私は知りません。そして私は現在、精神科医に掛かっていて、頭のおかしい人間だと診断されています」

「だろうね」

 この女性はどこからか、ひょっとすると二十年前からか、壊れてしまっている。

「自首してすべてを打ち明けても、私の妄想として片づけられてしまっては意味がない。だから、あなたと共に自首する必要があるのです。私と同類である、あなたと」

「同類? 俺が、きみと?」

 彼女は頷く。

「特殊な環境で、若いころを過ごしたせいで、取り返しのつかない悪事に手を染めたでしょう。その責任を、いまだ取らないまま、家庭を持っている。正常な心理じゃありません」

「糾弾を、されているのかな」

「諭しているだけです。まだ間に合いますよ、殺人に時効はありませんから」

 彼女の目は真摯だった。同時に狂っていた。

 だが、それが本当に狂っているかどうかの判断は、俺にはできない。

 俺もまた、確かに、ずっと昔から狂っているからだ。

 俺は腕時計を確認する。二十三時十分十二秒。

「俺が結婚した理由は、妻に憧れたからだ」

「なんの話ですか、急に」

「人をなぜ殺してはいけないか、というテーマについては俺もよく考えていた。俺はずっと、無関係な人間なら、殺したところで自分に害はないじゃないか、と思っていた。でも妻と出会い、彼女のように、当たり前に、悲しくなるから人を殺してはいけない、と考えられる人間に触れて、ああ、こんな人間になりたいと願った」

「なれたんですか?」

「ずっとなれなかったけれど、きみのおかげでひとつ、俺なりの回答が見えたよ」

「教えてください」

「このような事態に、巻き込まれるからだ」

 彼女は訝しむような目で、こちらをうかがった。


19

「人を殺すと、その死に付随した暗澹たる感情に巻き込まれる。俺は殺さない殺し屋だ、殺人自体は犯していない。警察に対しては証拠だって残しちゃいない。それでも今夜、こうして家族との夜を侵食される事態になった。俺をまっとうな道に戻してくれた妻や、子供たちを、危険に巻き込みかねなかった。大切な家族に危害が及ぶ可能性を減らすためには、殺さないほうがいいから、殺さない」

「私は、あなたさえ来てくれれば、ご家族に手は出しませんよ」

「それでも、残された家族は殺人幇助犯の妻と子になってしまう」

「それが、責任を取るということでしょう?」

「だから、それをしないんだ」

「なぜですか、無責任だ」

「俺には悪も善も、責任も無責任も関係ない。メリットがより高くデメリットがより低い選択をするだけだ。自首をするよりも、しないほうが、家族のためになるから、しない」

 思い返せば、この答えは二十年前にもう、決まっていたような気がする。俺は理佐と結婚するとき、自分の裏側を教えることもできた。だが、それをしなかった、これもやはり、メリットとデメリットを考えただけだが、俺なりの選択ではあったわけだ。

 俺は初めから、いい夫といい父のふりをするために、まともな人間でいることをやめていた。

 彼女は不満を隠そうともせずに、眉間に皺を寄せた。

「私は恋人を置いて、ここに来たのに」

「悪いね」

「いえ、でも、いいんです。その可能性も考えて、準備はしてきましたから」

 覚悟を決めた声だった。八重歯が覗く。

 直後、波音の向こうで鳴るサイレンに気づいた。

 次第に近づいてきている。

「まさか」思わず声が出た。

「ええ、通報しておきました。このあたりで銃声が聞こえたって。あと五分もしないうちに、警察が到着するでしょう」

 俺は視線を、腕時計にやる。二十三時十二分、四十秒。

 大菱ポートアイランドには交番があるが、彼女は橋向こうの警察署に通報したのだろう。発砲事件であれば、到着には数分の時間を要する。時間稼ぎのために、最初に話をしようと言ったらしい。

 彼女が、後ろに回した手を、俺のほうへ直線に掲げた。

「両手を挙げてください」

 白い、おもちゃじみた機械の丸い口が、俺の胸元を向いた。

「それは?」

「3Dプリンタ製の銃。ネットで買いました」

 つい苦笑する。

「未来が来てるって感じだね」

「なにを笑っているんですか。早く」


20

 俺は言われたとおりに、両手を挙げる。

「大丈夫、あなたを殺すつもりの凶器じゃありませんから。警官が来るまで、あなたをここに縛り付けておくための説得材料です」

「説得という言葉の解釈が、俺とは違うらしい」

「警察が来れば、あなたは私との関係を警官に説明しなければならなくなる。言い逃れは難しいでしょう」

 俺は唾を飲み、一歩下がる。

 彼女が一歩、俺への距離を詰める。

「動かないでください」

「銃口を向けられ慣れていないんだ」

 今度は彼女が一歩近づく。すると俺が、同じだけ退く。

「あのときを思い出しますね。狙うのは頭じゃなくて胸」

「俺が合図をするまで撃ってはいけない、という約束もあったよね」

 彼女の口元は変わらず、笑顔のように八重歯を覗かせている。

 だが表情は硬く、顔は青ざめている。

 なんだか、二十年前に人を殺した女の子と、なにも変わっていないようにも見えた。

 俺はじりじりと、半歩ずつ退いてゆく。だがここは人工島だ、陸地には終わりがある。やがて俺の踵が空(くう)を踏んだ。背後は海だった。

 波音がいっそう大きく聞こえる。サイレン音は、それ以上に大きさを増し、迫ってくる。

 真っ暗な中、隣の区画に並ぶガントリークレーン群からの照明が、視界の端にちかちかと瞬いていて、夢の中にいるみたいだった。その中に、近づいてくる光が見えた。

 俺は視線を、腕時計にやる。二十三時十四分、四十一秒、四十二、四十三、

「きみには本当に申し訳ないと思っているんだ」

「いえ、私はあなたに感謝していますよ。そのうえで、罪は罪と認めて償いましょうと言っているだけです」

「どうしても、自首するという意思は変わらないんだね」

「はい。もうすぐすべてをリセットできる。すっきりした心地です」

「だが、悪い。俺はリセットせずに続けたいんだ」

 言うと同時に、俺は地面を蹴る。後ろに跳ぶ。

「え」

 と目を見開いた彼女の顔が見える。

 わずかな落下時間があった。その後、足がデッキを踏む。大きな揺れがくる。膝を折り、船体に捕まってバランスを取る。「出します」と、操縦士の声が聞こえた。「お願いします」と大声で返す。ブオンと船が唸り、速度をぐんと上げる。

 待って! と声が聞こえる。見上げれば、わずかな照明に浮かび上がったクリハラが、こちらに銃を向けている。俺は頭を下げる。バン、と大音量が響いた。着弾音は聞こえなかった。水面に吸い込まれたのだろう。

 バン、バン、と立て続けに二度鳴った。

 そのとき、彼女の輪郭が赤く発光して見えた。警察車両のパトランプだった。

 

21

 仕入れ屋さんに頼んだ、もうひとつのお願いは、ウーパーを手配してもらうことだった。大菱ポートアイランドに二十三時十五分。妻には、できるだけ早く帰ると約束していた。

 小型船を、海浜公園沿いの桟橋に付けてもらった。

 謝礼金を支払い、事務的な礼を伝えて、運び屋と別れた。

 車に乗り込み、エンジンをかける。サイドブレーキを外し、走り出す。

 窓を開けると、サイレン音はもう鳴っていなかった。バックミラーに赤色灯も見えない。

 クリハラはおそらく捕まっただろう。彼女は、俺の話も警察に明かしてしまうに違いない。ただ、あの場に俺がいた証拠にたどり着くまでには少々時間がかかるはずだ。これからの鎮火について考えた。

 人工島から、本州の湾岸へ入る橋は過度な照明に彩られていた。雨がぱらついてきた。フロントガラスに光彩がばらまかれ、虹色にぼやけていた。

 やや冷えた風に吹かれながら、マンションの駐車場に戻った。

 エンジンを切ったところで、スマートフォンが震えた。

 仕入れ屋さんからの着信だった。「はい」

「今大丈夫? 片付いた?」

「片付いたとは言えませんが、話は付けました。危機もおかげさまで、一時的には回避しました。今、駐車場に帰ってきたところです。心配して、連絡くださったんですか?」

「まさか。あの答えが気になってさ」

「答え?」

「きみの昔の依頼人が、きみの住所を割り出した方法。こういうことが気になり出すと、ちゃんと納得しないと気が済まない性質(たち)なんだよ」

「ああ――」

 俺は、彼女から聞いたやり口を伝えたあ。彼は「あーやっぱりかあ」と、まるで予想が付いていたような相槌を打った。彼もまた、異常な思想の持ち主なのかもしれない。

「すっきりしたよ、ありがと。それじゃ」

 電話を切ろうとする彼を、俺は「待ってください」と呼び止める。

「いただいた電話で恐縮なのですが、ついでに仕入れ屋さんにお願いしていいですか」

「今回は注文が多いね、まあ大歓迎だけど」

「この前、素姓を調べていただいた青年のウーパーについてなんですが」

「ああ、兵頭勇人」

「ええ、ウンパン.com内から、彼に関する情報をすべて消すことは可能ですか?」

「十万円もあれば可能だけど、警察に目を付けられたの?」

「話が早くて助かります、お願いします」

「わかった。じゃ、僕のこの番号ももう捨てた方がいいね」

「お手数おかけしてすみません」

「いやいや、きみのお母さんにはお世話になったから。じゃ、支払いはいつもの郵送でお願いね。きみの周りが落ち着いたら、また新しい連絡先を教える。念のために、五年後かな」

「はい、それまでお元気で」

「うん、そっちも上手くやりなよ。ばいばーい」

 電話を切って、通話履歴とキャッシュを消去する。警察が本気になれば復元は容易だろうから、SIMカードを抜き、ダッシュボードの中に置いておいた新しいスマートフォンに差し替えた。初期設定を手早く済ませ、古い機体を掴んで車を降りる。少し歩いた先のコンビニに入り、店内のゴミ箱に旧機体を捨てた。明日の朝七時には廃棄場だ。スウィーツコーナーで、妻が好きそうな黒蜜がけわらびもちを買って、マンションに戻る。

 

22

 九〇一号室の玄関を開ける。保安灯がついていて、足元には困らなかった。

 廊下の突き当たり、リビングのドアからも橙色の光が漏れている。靴を脱ぎ、そちらへ入ると、ソファーに座った理佐が、大ぶりなクッションを抱えて座っていた。

 クッションの上部に顎を乗せ、子供みたいな調子で言う。

「遅い」

「待っててくれたの?」

「もちろん」

「どうして」

「私が寝るときには、おやすみを言って。結婚したときの約束でしょう」

「そんなこと言ったっけ?」

「あ、ひどい」

 言われてみれば、そんな約束もしたかもしれない。毎日当たり前におやすみを言っているから、すっかり忘れていたけれど。

「子供たちは?」

「八尋はとっくに寝た。架純はまだ起きてるかもね。成長期なのに、身体に悪いのよね」

「そのくらいは架純も承知の上で、起きているんだろう。なにか事情があるのさ」

「あなたは架純に甘すぎる」

「本当にまずいときには止めるよ」

 架純には、改めて話をしなければならない。

 どう言葉にするかも含めて、慎重に選ぶ必要がある。

「その袋、なに?」

「黒蜜がけわらびもち。好きかなと思って」

「気が利く~。ついでになにか温かいものを入れてよ、睡眠導入にいいやつ」

「緑茶じゃ目が覚めちゃいそうだよな。ホットジンジャーとかかな」

「いいねえ」

「急いで沸かすよ」

 俺は小鍋に水を注ぎ、コンロに火をかける。

 そそり立つガスの炎が、こうこうと、潜水服の中みたいな音を立てる。妻を振り返れば、ソファーの背もたれにだらりと体重を預けて、安らかに目を閉じている。俺は、この時間を任されていると実感する。それを守るために、あらゆる責任を犠牲にする。

 

>次話 

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