うちのヤバい事情 case2 娘・架純
1
ベッドにうつぶせになり、枕を顎の下に敷いて、スマートフォンで動画を再生する。
クドーフユオミという歌い手は、私と同じ高校二年生ながら、マイチューブで六十万登録者を誇る、有名動画投稿主だ。内容は主に、流行りの曲の歌ってみた動画、それ自体だとありきたりなコンテンツだが、美声で歌うだけでなく、有名な三味線奏者にバックミュージックを頼んだり、コスプレイヤーに衣装とメイクをばっちり決めてもらってアニメキャラクターに扮したり、自分と同じような歌い手を十一人誘って、壮大なオンラインコンサートを開いたりと、他投稿主とのコラボレーションにも力を入れている。コミュニケーション能力が高いのだ、昔から。
でもなによりも私が目を奪われるのは、表情豊かに動く、彼の手だ。
動画の画角には本格的なマイクと、それに隠れた彼の顔の一部、それに、彼が歌いながら感情を込める身振りも映る。血管の浮いた手の甲、骨のごつっとした関節、清潔感のある指先と爪は、彼の低く甘い声と相まって独特の魅力に溢れている。
私は今日も彼の動画をリピート再生しながら、その手をじっと見つめている。
2
「ちょっと、これ、あなたの顔だよね」
私はスマートフォンを、隣に座る少女に向ける。私の踊ってみた動画が再生されている。踊る私の背後の、コンクリートの壁に目を凝らすと、少女の顔が耳から全面だけ、まるで水に浮かぶみたいに覗いている。
『わ、怖い』
「怖いのはこっちだよ、なにしてくれてるの」
『いや、あれえ? 映るとまずいと思って隠れたんだけどな』
「顔、はみ出ちゃってるじゃない」
『出ちゃったみたい』
「みたい、じゃないよ。コメント欄があなたのことで持ち切りなんだけど」
『ごめん、でも再生数は伸びてるみたいだし、ここはお互い協力して上手くやれないかな』
「協力? あなたが私に何をしてくれるのさ」
『いっそこの路線を確立するんだよ』
「ほう」
『心霊ダンス動画、きっとバズるよ?』
辻川日奈が私の前に現れたのは、近所のショッピングセンターにスマートフォン用の新しい固定台を買いに行ったときだった。会計を済ませ、二階のスマホグッズショップから出ると、大音量のポップミュージックが耳に飛び込んできた。
廊下から見下ろせる、吹き抜けのホールの特設ステージで、知らないアイドルたちが踊っていた。客は少なく、パイプ椅子が申し訳程度に十脚ほど並んでいたが、座っている人はいなかった。買い物ついでに立ち止まっただろう客が数人、遠巻きに数秒足を止めているだけだ。しかし、ひとりだけ、椅子にも座らず最前列でステージに食い入るように見つめている少女がいた。横顔は私と同い年くらいで、全身が半透明だった。
私は凝視した。
「おばけ?」
と無意識に声にしていた。するとその声が聞こえる距離でもないだろうに、少女がこちらを振り向き、目が合った。彼女の唇が動く。
『あなた、わたしが見えてるの?』
声ははっきりと頭の中に響いた。まるで隣にいるみたいに。
ぞぞおっと二の腕が粟立つ。私は一目散に駆けだした。悲鳴も上げず、呼吸を止めて階段を一段飛ばしで走り降り、出口へと直線を描いて逃げた。駐車場で自転車に乗り、立ち漕ぎで飛ばした。
気が付けば家だった。父の「おかえり」を聞くと、ようやく心臓の躍動がましになった。呼吸を整え、「ただいま」と言った。どうした、と訊かれたけれど無視して、部屋に戻った。その日のお風呂は、なんとなく、体をしっかりめに洗った。キッチンから塩を盗み、部屋と自分にまぶした。夏なのに布団にもぐり、丸まって汗をかきながら、どうにか眠った。
翌朝、いくらか気が落ち着いて、昨日のあれは幻だろうと冷静な判断をした。動画を撮る必要があった。学校と反対方向の、河川敷に掛かる高架の足元、コンクリートの壁の前でダンスを録画した。編集は、多少カットして曲を乗せる程度だから、その場で日陰に座りアプリで済ませた。投稿ボタンを押した直後に、背後から声をかけられた。
『その曲、ブットバスガールズだよね?』
振り返ると、私がもたれていた高架のコンクリートの壁から、少女の顔が覗いていた。
「ひい!」
と私は声を上げ、砂利に尻餅をついた。
「あのときの」
少女はコンクリからのっそりと出てきて、申し訳なさそうに眉を下げ、会釈する。
『ごめんね、自転車のうしろに乗って、家までついていっちゃった』
「気づかなかった」
『わたし、人には触れないから』
「部屋を覗いた?」
『いえ、無許可でそれはさすがに悪いなと思って、外で待ってた。そしたら今朝になって、ひとりで出かけるみたいだったから、尾行させてもらったの』
言っていることがめちゃくちゃだ。
「あなた、幽霊で合ってるんだよね?」
『そうだね』
「なんでデイタイムに活動しているの」
『夜にしか動かないというのは偏見だよ。正確には、ぼんやりと発光していて半透明だから、昼間よりは夜のほうが見つけられやすいというだけで』
「初めて聞いた解釈だ」
『このへんのことは霊になったときに、みんな自然と自覚するの』
私はこめかみを指で押さえる。
「私を尾行した理由は?」
『あなたが唯一、私を見えて、声も聞こえる人間だったから』
「私、霊感はないはずだけど」
『じゃあなおさら、これは運命だね。わたしの成仏に、協力してほしい』
彼女の半透明の笑顔の向こうに夏の青空が透けて、まばゆい。私は目を細める。
「は?」
『幽霊というのはね、人生に未練があるものなの。それを晴らせば消えられる。たとえば、家族を残してきて心配だとか、なりたかった職業があるとか、自分を死に追い詰めた誰かへの復讐とか』
「……どれも、死んだあとじゃ叶えようがなさそうだけど」
『表面的にはね。でもこういう未練って、本当は別の方法でも解消できるでしょう? 家族の将来への安心を保証してあげるとか、職業を一度だけ体験させてあげるとか、自分を追い詰めた相手からの誠意ある謝罪とか』
「それで、あなたの未練はなんなの」
『わからないんだ』
「わからない?」
『霊は自分の未練を忘れてしまっているものでさ。だからパートナーから未練を指摘してもらわないといけない。そうして自覚したうえで、それを晴らさないといけないの』
「パートナーというのは?」
『霊と相性のいい人間のこと。パートナーだけがわたしを見ることができて、わたしの声を聞くことができる。会えない霊は何年だって会えないままなんだけど、私は一周忌を前にして、あなたに会えた。とっても嬉しいよ』
彼女は握手を求めるように、右手を差し出してくる。私はその手を見下ろす。河川敷の砂利が透けている。もう一度顔を上げ、彼女の目を見つめる。
「断ると?」
彼女は、いじわるく、綺麗な歯を見せて笑う。
『呪っちゃおうかな』
とんでもないことになった。
4
ふたり並んで、高架下の日陰の河川敷の、砂利の上に三角座りをした。
彼女は辻川日奈と名乗った。享年は私と同じ十七歳、ただ亡くなったのが約一年前だから実質的には一歳年上にあたる。生前は高校に通いながらアイドルをしていて、といっても一般的な知名度はほぼなくて、地下ライブでおこづかい程度の給料をもらいながら、高校生活と掛け持ちで忙殺される日々だった、らしい。かつてはグループでやっていたが、メンバーは徐々に抜けていき、最後のほうは個人で活動していたという。
「大変な生活だね」
と、とりあえず同情の姿勢を見せてみる。
『でも、その薄幸な感じが幸いして、とある番組のキャストに大抜擢されたの。ドリームマンションって知ってる?』
「知らない」
『夢を抱いて燻っている若者たちが集められて、役柄じゃなく、自分自身として参加するリアリティショー。たとえばアイドルとして有名になりたいとか、お笑いや落語で上を目指す人、起業した会社の宣伝として参加したいって人もいる。参加者は番組側から資金援助を受ける代わりに、番組が決めた二人一組で同室に住まなければならなくて、生活の様子はカメラで撮られ、全国に流れる。脚本なしのリアルな人間ドラマが人気だったんだけど』
「あまり趣味のいい番組とは言えないね」
『でも、知ってもらえる機会にはなる』
「それで」
『わたし、ある男の子と同棲したんだけど』
「え、男女の組み合わせもあるの」
『もし恋愛になれば高視聴率を撮れるからって』
「あなたの事務所は、恋愛OKなんだ?」
『禁止。でも出演自体はチャンスだから行ってこい、上手く視聴率は取れ、ただし恋愛はするな、というご注文だった』
「ひどい大人もいたもんだ」これは本心から言った。
『彼はインディーズレーベルで歌手をしている男の子だった。私の二個上だから十九歳。同棲するうちに、その人に告白されて』
「えっ」と思わず、大きな出る。「付き合ったの?」
『断ったよ、もちろん』
「そっか」
ほっ、と無意識に息を吐いていた。安心したのか、残念だったのかはよくわからない。
『でもそのせいで、彼のファンが包丁を持って、わたしたちの前に現れて』
「ん、なにを持って?」
『包丁。収録場所のマンションの住所を特定されたんだよね。番組側の落ち度というよりは、間取りと日の射しこみ方だけから特定した犯人のほうが異常だったんだけど、待ち伏せていたみたいで、わたしと男の子が一緒に出てきたタイミングを見計らって、彼の方を刺そうとした』
私は口を半開きで、しばらく固まる。
「ええと、それは、あんたに告白したことが許せなかった、とかそういうこと?」
『そんな感じのことを叫んでいたね。わたしはその子を止めようとして、刺された』
「まさか、その傷が原因で?」
『うん、刺されどころが悪くて死んじゃった』
なんと言ったものか、絶句する。
どうしたって心の傷を癒せるとは思えなかったので、両手を合わせた。
「ご冥福をお祈りします」
『じゃなくて』日奈は苦笑しながら、顔の前で手を左右に振った。『ご冥福するためにも、わたしの未練を一緒に考えてほしいんだよ』
「ああ、そうだった」
『頼むよ、架純ちゃん』
いつのまにか名前を知られていた。別にいいけど。
5
私は顎に手を当てる。ううん、と唸る。
「普通に考えて、予期せぬ死だから未練はそりゃあるよね」
『そうだね、できれば死にたくはなかったね』
「夢を見る者たちが集められるマンションだったわけだから、たとえば、夢半ばで亡くなったことは充分に未練と言えると思う。あなたの夢はなに?」
『みんなから愛されるアイドルになること』
私は思わず、目を見開く。
「営業用の回答?」
『ええ? なにそれ、違うよ』
「や、あまりに模範的だからびっくりして」
『あ、それは嬉しいな』
「嬉しい?」
『模範的と思ってもらえるのは冥利に尽きるんだ。わたしのキャッチコピー、〝国民的聖女〟だからさ』
「なんか、アイドルっぽくないコピー。宗教みたいじゃない?」
『そう? まさに偶像って感じで気に入っているんだけど』
きょとんとした様子で、顎に人差し指を当てている。そういう仕草をする女の子の中で一番、彼女は自然に見える。
「国民的聖女の、辻川日奈ね」
私はスマートフォンを握り、スリープを解除した。ブラウザを開く。
「死後、自分の死に関するニュースは見た?」
『まだ。見る手段がなかったから』
「今見てもいい?」
『もちろん。わたしにも見せて』
6
私が過去のニュースを検索し、ひとつの画面を一緒に見た。
偶像なんて大げさだな、と思ったのだけれど、彼女の死の世間での受け止められ方を調べると、あながちズレてはいないのかもしれなかった。
彼女の死後、番組は手酷く叩かれ、制作は無期限中止となった。地上波では同系統の番組が消えた。日奈が救った若手歌手は、彼女への感謝と失恋を語る曲を出した。その印税をすべて、彼女の家族に寄付した。この曲がまた、もの悲しいのに優しくて、彼女の死を崇高なものに昇華していた。メディアではさまざまなコピーが使われた。『失われた、献身的な命』『優しきみんなのアイドル、永遠に』『〝聖女〟と呼ばれた十七歳から何を学べるか?』悲劇でありながら美談として、彼女は人々の記憶に刻まれた。
私の目には、彼女が死ぬことで聖女として完成したようにすら見えた。
スマートフォンをスリープモードに戻し、「こういう言い方が傷つけちゃったら申し訳ないんだけど」と前置きをする。
「数ある不運な死の中では、あなたの最期は幸福な方だったんじゃないかと思うよ。みんなから充分に愛されて、惜しまれながら逝ったように見える」
『ありがとう。わたしも、ちょっと安心した』
「でも、成仏できる気配はないんだよね?」
『そうだね』
「じゃあ、他に未練があるということだ」
『そうなるね』
「他にやり残したことは?」
『思いつかないんだよねえ、これが』
「残された人に伝えそびれた言葉は?」
『いろんな人に感謝と謝罪の気持ちはあるけど、今さら伝えにいきたくはないかな』
「犯人に復讐は?」
『したくないよ、心外だな』
「でもあなたを殺した人だよ? 恨みはないの。もしくは、謝罪をしてほしいとか」
『だって、わたしが彼女の前に飛び出しただけだからね。不運な事故だよ』
私は顎を引く。
あまりにいい奴すぎる回答で、やりづらさを感じる。私がひねているだけかもしれないけれど。間をもたすために、鼻を触った。
「そういえば呪いって言ってたけど、実際にどんなことをできるの?」
『ああ、あれは冗談。そんな力はないから、安心して』
「なんだ、そうなのね。そっかそっか」
『ん? あ、架純ちゃん、もしかして投げ出そうとしてる?』
図星だった。軽く舌を出す。
「だって、構ってあげられる時間がないんだよ。ほら、私、いろいろと忙しいから」
『動画収録?』
「とか、もろもろ」
『ところで、どうして動画の投稿なんてしてるの? ダンサー志望?』
「まさか。私のダンスなんて素人に毛が生えた程度のものだよ」
『なら、なおさらなんで』
「それは――」
どう返そうか、と迷っていると、手に握っていたスマートフォンが震えた。
トップ画面に、自分の動画チャンネルからの通知が表示されている。手癖でチャンネルのマイページを開くと、見慣れない文言が目に入る。
〝おめでとう! 動画の視聴回数が5千回を超えました!〟
「え」と声が出る。「もう?」
つい二十分ほど前に投稿したばかりなのに。いつもなら、数百再生がいいところだ。「ちょっとごめん」と彼女に断り、慌てて動画を再生しなおす。コメント欄に目を通す。気になる書き込みがいくつもある。『あれ? 後ろに映ってるの何?』『やっぱり映ってますよねこれww』『ここ、どこ? 有名スポット?』
そのときはじめて、高架の脚であるコンクリートの壁からうっすらと覗いている、半透明の顔に気づいた。今私の目の前で、きょとんとしている少女と同じ顔だ。血の気が引き、スマートフォンを彼女に向ける。
「ちょっと、これ、あなたの顔だよね」
冒頭の会話に戻る。
『わ、怖い』
「怖いのはこっちだよ、なにしてくれてるの」
『いや、あれえ? 映るとまずいと思って隠れたんだけどな』
「顔、はみ出ちゃってるじゃない」
『出ちゃったみたい』
「みたい、じゃないよ。コメント欄があなたのことで持ち切りなんだけど」
『ごめん、でも再生数は伸びてるみたいだし、ここはお互い協力して上手くやれないかな』
「協力? あなたが私に何をしてくれるのさ」
『いっそこの路線を確立するんだよ』
「ほう」
『心霊ダンス動画、きっとバズるよ?』
辻川日奈は、霊のくせに底抜けに明るい笑顔を、背景の青空に透かせてみせる。
私は呆れて、つい苦笑する。この子が愛される理由が、少しだけわかる気がした。
7
それから日奈は、四六時中、私に憑いてまわった。
昼間は一緒に移動するし、夜は一緒に寝た。彼女の身体はなにもかもを透過できるから、ベッドが狭いということはない。しかも肌が触れ合うと少し肌寒いから、夏にはちょうどよかった。
翌日は学校で、昼休みには図書室へ行った。長机の席のひとつに座り、本をふたつ並べて開いた。隣の席には日奈が座った。読んでいるのは二冊とも、霊に関する本だ。最初はネットで心霊記事を読んでいたけれど、どれもうさんくさくて、本ならもう少しまともな情報が書いてあるんじゃないかと思ったのだ。
しゃらり、と素材のいい髪をめくる音が聞こえる。私は隣を睨み、小声でつぶやく。
「ちょっと、ひとりでページをめくらないでって言ってるでしょ」
『だって、わざわざ架純ちゃんにめくってもらうの、煩わしいじゃん』
「ポルターガイストになっちゃってるんだよ、バレたらどうするの」
日奈は、人にはどうやっても触れない。私以外には見えないし、声も聞こえない。ただ、非生物に対しては、触ろうと思えば触れるらしい。その点では、調べものの効率を上げることができる。『そうそうバレないと思うけどな』と日奈は言う。私は机に肘をついて、口元を隠す。
「なにか情報は見つかったの」
『そうだなあ、しいて言えばここ、面白いことを書いてあるよ』日奈が透明な指でページを差す。『幽霊に憑りつかれやすい人間について。危ないのは以下のような人。人の死と関わる仕事をしている人、もしくはその近親者』
「お母さんはスーパーの社員だし、お父さんは専業主夫だよ」
『霊を過剰に怖がってしまう人』
「もう慣れたよ」
『霊と同じ悩みを持っている人』
「悩み?」
『そう書いてあるね』
「あなたと私に共通する悩みってなによ」
『知らない。それがわかればヒントになりそうだけどね』
こほん、と二つ隣の席で咳払いが聞こえる。ちらりと見れば、いつのまにか男子が座っていて、怪訝そうにこちらを見ている。たしか同じクラスだ。でも名前も知らない。自分で言うのもなんだが、私は地味で社交性に欠ける。
私は「すみません」と軽く頭を下げ、本を二冊とも戻してから図書室を出る。『あれ? まだ昼休みあるよ』と言ってくる日奈に「いいから」と返し、教室に戻った。
8
放課後、高架下にまた行った。
下校ルートから少し離れたここに、知り合いは来ない。
日陰で、以前に私が投稿した、日奈の映ったダンス動画を見返した。再生数は二万回を超えたあたりで落ち着いているが、コメント欄には続編を希望する声が届いている。それらすべてに「いいね」ボタンを押す。人気マイチューバーになるには、こうした地道な作業が必要だ。
「あなたの目的に付き合ってもらった以上、働いてもらうからね」
『むしろ悪いね。色々調査してもらっているのに、わたしの方は動画に映るくらいしか協力できなくて』
日奈の以前の言葉どおり、幽霊の映る動画を何度も投稿すれば、再生回数は伸びるかもしれない。その誘惑にまんまと負けた私は、撮影に来たのだった。
スマートフォンを固定台をセットする。風で転ばないように大きめの石で挟む。
『そういえば、どうして動画を撮るのかまだ教えてもらってなかったよね』
私は彼女を振り返る。隠すのもフェアじゃないので素直に言う。
「クドーフユオミに会って、話をするため」
『誰? それ』
「歌ってみた動画の投稿主」
『へえ、ファンなんだ?』
「そういうわけじゃない。小学校のときのクラスメイト」
『えっ』
「あちらは私を忘れてると思うけどね」
『親しくはなかったんだ?』
「うん、全然」
『その頃から好きだったの?』
「だから、好きなわけじゃないってば。当時はむしろ苦手だったし」
『だけど、今は気になる存在なんでしょ』
難しいところだ。
気になっているといえば、なっているけれど。
私が黙っていると日奈が、『アオハルだなあ』と勝手に納得する。
なにか勘違いされている気がしたけれど、私は訂正する言葉を持ち合わせていなかったから、「なんだよそれ」と適当に返す。
『けど、それで、どうして動画を撮ることになるの?』
「ある程度のチャンネル登録者数を持つ投稿主になれば、コラボできるかなと思ったの。彼の歌と相性のいいコンテンツで、私が実現できるものがダンスしかなかった。それも、素人に毛の生えた程度の」
『だから、ちょっと露出の多い衣装を着てみたりして?』
「そう、あわよくば少しでも伸びないかと期待している」
オフショルダーや、ミニスカート、ショート丈トップスとローライズ。学校の知り合いには絶対に見せられない姿で踊っている。でも一応の効果はあったのか、以降登録者数はぐんと伸びた。
「あざとすぎて、引くよね」
『ぜんぜん。わたしも同じようなものだし』
日奈はほら、とばかりに自分の服を手のひらで示す。お嬢様風のワンピースだ。肩は出ていて、スカートの丈は短い。けれど彼女のものは、私なんかよりも、いやらしさがないように見える。
「あなたのは、女の子にも受けそうだよ」
『そこが狙いだからね、女性票も欲しいから』
生々しい言葉に、眉を上げる。
「あなた、意外と計算高いタイプなの?」
『嫌われたくないもんね』
彼女は白い歯を見せて笑う。
「それを私に打ち明けてしまうと、嫌われるかもとは考えないの?」
『考えたけど、未練を晴らすためにはすべてを偽りなく伝えるしかないと思わない?』
「なるほど、確かに」
9
もともとは、前回と同じようにしんみりと心霊映像を作る算段だった。私の再生数を稼ぐためだけに。けれど、ふと思い、提案した。
「どうせなら、あなたが踊ってみる?」
『え、なに、急に?』
「あなたの未練についてずっと考えていたんだけど、それってやっぱりアイドルをできなくなったことなんじゃないかなって。歌って、踊って、それを見てもらって。あなたの姿は私にしか見えないけど、動画を通せば、みんなに見てもらえるでしょう?」
『でも、どんな映像になるかわからないよ?』
「衝撃のホラー映像になるかもね」
『いいの?』
「それはそれで、バズるでしょ。あなたがいいなら、私はいいよ」
『いい、いい。わあ、こういうの久々、楽しみだな』
シリアスさのかけらもない笑顔に、私は頬を緩める。
『もちろん、架純ちゃんも一緒に踊るんだよね?』
「え、全然そんなつもりじゃなかったけど」
『どうして! 架純ちゃんのチャンネルなんだから、一緒にやろうよ』
「私の下手さが際立つじゃん」
『わたしも、持ち歌以外のダンスはからっきし下手だよ』
つい笑う。「それはそれで、プロのアイドルに醜態を晒させるみたいで気が引けるな」
『いいよ、一緒にやることに意味があるんだから』
「でも今からふたりで合わせられる曲、あるかな」
『この前のブットバスガールズなら、振り付け知ってるよ』
楽しそうに笑顔を弾けさせる彼女に、私はふっと息を吐く。
思えば、日奈は約一年間、パートナーが見つからなかったと言っていた。その間、誰にも見られず、聞かれず、孤独な時間を生きていたのだろう。
10
私と幽霊が堂々と、昼間の河川敷で踊る。
彼女は足音も衣擦れの音も立てないから、動きを合わせるのが難しい。でも彼女の方が逆に、私に合わせてくれているのがわかった。下手というのは謙遜だと思っていたけれど、たしかに彼女は、あまり運動神経がいいようには見えなかった。私ももともとそれが嫌でダンスを習い始めたたちだから、ちょっと親近感が湧いた。
撮り終えたものを見ると、思ったよりもホラーテイストではなかった。
どちらかというと神秘的だった。高架下のくっきりとした陰に、斜めに射し込む夏の日、その対比の中で半透明な彼女が踊る情景は、きらきらと光の幻想を生んでいて、目をくぎ付けにする魅力があった。いつまでも見ていられる。
11
アップロードを終え、家に帰った。自室に戻り、ベッドに仰向けに倒れる。思いきり伸びをする。日奈は、私の勉強用の椅子に腰かけた。
『疲れた?』
「ん、まあね」
『人と合わせると疲労感が違うよね、ありがとね』
「合わせてもらったのはこっちでしょ、いいんだよ」
本当は、ダンスが理由ではなかった。日奈に憑りつかれてから肩こりがひどい。
でも、そのことを気取られたくはなかった。上体を起こし、あぐらをかいてクッションをお腹の前に抱え、話題を逸らした。
「ところで、あなた、なんでアイドルになろうと思ったの」
『うん?』
本当は最初に確認しなきゃいけなかったことのような気もする。
日奈は、なんでもないように答えた。
『人に愛されたいからだよ』
「それは、アイドルになってからの夢だと思ってた」
『違う。愛されたいから、アイドルという生き方を選んだの』
珍しい動機だ。
いや、ひょっとしてそうでもないのだろうか?
『うちはお母さんだけの片親なんだけど、一度信じ込むと極端な性格の人でさ』と日奈が勉強机の方を向く。視線を合わせずに続ける。『テレビで身体にいいと放送されたものがあったら、そればかり食べさせようとするし、有害だと言われたものはすべて排除する、という育て方で』
「ああ、いるね、そういうタイプ」
『物心ついた頃から、まわりの家庭と違うな、とは思ってたんだよ。たとえば、ショートニングが入っている食べ物はすべて食べちゃだめだったから、園の先生や友達のお母さんがパンやお菓子をくれようとしても断るように言われていた。少しでも靴とか街路樹とかを触ったら、即座に手をアルコールで拭かないといけないから、肌がよく荒れていた』
「つらいな」
『そんな母があるとき、海外の学者さんの育児本を読んだの。なんとか教育ってカタカナの名前が付いてる本で、基本的には否定しないで育てるという方針らしかったのね。それで母は、わたしの行動をすべて肯定するようになった』
「それは、いいことのような気がするけれど」
『私が小学一年生のとき、丸まっているダンゴムシを触りたいという友達がいた。けれど、急に開くと怖いから、触れないと言っていた。わたしはその子のために、丸まったダンゴムシを接着剤でつけて、開けなくしたものを渡した』
私は顔を歪める。「それは」と言葉に迷う。「あまりよくないね」
日奈は空気を和ませるように苦笑する。
『うん、当然、先生に叱られた。友達のためを思ってやった、ということは説明したつもりだけれど、たぶん先生からすると残虐性の方が目に付いたんだと思う。強い口調で、信じられない、と拒まれた。その話を家に帰って報告したら、母は、日奈はそのままでいいんだよ、やさしい子だったね、と褒めてくれた』
私はクッションを握る手に、ぎゅっと力を込める。
「どちらも、子育てとしては足りてない」
『そうだね。きっと母は、わたしを育てたかったんじゃなくて、いい教育をしたかったんだと思う。そして先生の方が、多分一般的な反応だと思う』
たしかに、どちらかというと、そうだろう。
『ただ、そのときの私は母の言葉を優先した、実の親だからという理由と、わたしを肯定してくれたという安心から。わたしは反省する機会を逸した。以降も、人のためを思って取った行動が他人の価値観とずれている問題が何度が起きて、友達がいなくなって、でもそんなわたしのことも母はすべて肯定して、わたしは変わらなくて、もっと気味悪がられて、なんで周りはわかってくれないんだろうという感覚がやがて、自分と母の方が異常なんだ、という気づきに変わっていって。その頃には、わたしは自分を信じられなくなっていた。わたしの思いやりは異常だ。わたしのやさしさは狂気的だ、という強迫観念にかられた。まわりの、人気のある子の仕草や表情、言葉遣いを真似して、どうにか社会性を維持しようと努めた』
キャスター付きの椅子が、きい、と軋む。その音が、まるで生きているみたいで、私はそちらに視線を落とす。
12
『そんなとき、アイドルたちのドキュメンタリー番組を見たんだよね』
日奈の声が少し明るくなる。私は再び顎を上げ、彼女の目を見つめる。
『みんな、裏では涙を流しているのに、ステージの上ではそんなことを少しも考えさせないくらいに明るくて、やさしくて、見ていると涙が出てきた。彼女たちは、わたしから見れば満点の人間だった。ああ、これだと思った。わたしは二十四時間、三百六十五日、ステージに立つつもりでやればいいんだって。そうすれば、異常性を隠せる。みんなから愛される。そう覚悟が決まって、気持ちが、すっと楽になった』
「だから、アイドルになった」
『うん』
つまり、職業としてでなく、生き方としてアイドルを選んだ。
「お母さんはなんて?」
『いつもどおりだよ、肯定してくれた。否定も心配もされない決意って、なんだか虚しいと知ったけれど、それはそれで、いいことでもあった。母からは遠いところ、わたしからも遠い楽園みたいな場所に、もうひとりの辻川日奈を作ろうという決心が固まったから』
「亡くなってからは、お母さんに会っていないの?」
『自分の葬儀を見に行ったよ。なんとなく予想はしていたけど、母にはわたしは見えなかった。でも、そのことになんだかほっとしたな』
日奈は目を細めて、今までに何度も見せた、愛らしい笑みを浮かべた。
『お母さんに感謝はしてるんだよ? けど同時に、苦手なんだ』
「そっか」
日奈は、これで話は終わりとでもいうように、私の隣に来て、ベッドに寝転がる。
私も、今度は仰向けに寝て、マイチューブを開いた。日課であるクドーフユオミの動画を再生する。日奈が私に寄り添い、覗き込んでくる。身体が透明だから、手で払いようもない。その言い訳が気楽だった。
『この人、手がエロいね』と日奈が言い、「わかってるじゃん」と私が笑う。
就寝前に確認すると、動画は十万回再生され、カテゴリ内での急上昇ランキングに入っていた。比例してコメント欄も盛り上がっている。『この子って、もしかしてあの事件で死んだ子?』『ほんとだ』『加工に決まってるだろ』『不謹慎だ』『加工にしても凄すぎない?』『隣で踊っているのは誰?』。私は顔を加工して見えなくしているから、その素性を知りたがる人もいた。見ている傍から、『ここ、どこ? 有名スポット?』と新たなコメントが投稿される。
夜中、寒気と喉の渇きで起きることが増えた。日奈いわく、魘されていたり、夢遊病のように飲み物を摂取しにいくときもあるという。私は、「そうなんだ、自分ではあまり気にならないけどな」と強がったが、倦怠感に終始苛まれていた。
日奈のほうにタイムリミットはなくても、私の身体には限界があるのかもしれなかった。
動画の投稿は続けていた。五週間で五本の動画を上げ、チャンネル登録者数は二十万人を超えた。動画のファンたちの半分は日奈をトリックだと言い、半分は本物だと言った。半分は不謹慎だと叩き、もう半分は、そんなことに興味はなさそうに楽しんでいた。私の目標である、クドーフユオミの目に留まる日も、遠くないのではないか、と思えていた。
ただ、日奈が消える気配はなかった。
このやり方は正しくないのだろうな、と薄々気づいていた。
かといって、他の方法が思いつくでもない。彼女は誰かに伝え遺した言葉があるでもない。犯人を恨んでいるでもない。番組スタッフを恨んでいるでもない。親とのことも、アイドルとして生きることを決めた時点で、整理はついている様子だ。
なら、なにが未練なのだろう。
六本目のダンス動画の収録を終えた。高架下の日陰に並んで座った。
私は肩で息をし、汗をタオルで拭っていた。日奈は涼しい顔だった。そんなところに、埋めようのない隔たりを感じる。
不審者が近づいてきたのは、そのときだった。
夏だというのに黒いニット帽、黒いサングラスにマスクを着けていた。土手の上からこちらをうかがっていると思ったら、階段をとぼとぼと降りて近づいてくる。
「なにあれ」
と私がまず言って、
『こっちに来てるね』
と日奈が少しの緊張と込めた声で返す。
男はウェストポーチをしている。それを開けた。中から未開封の包丁が出てきた。パッケージをむしるように開け、地面に捨てた。右手に包丁が握りしめられる。
『あ、百均の。私のときと同じだ』
「同一犯?」
『違うでしょ、男だもん』
私は声を荒げる。「逃げるよ」
『ちょっと待って』
「なに」日奈が私の前に立ちふさがる。半透明の身体に視界を悪くされ、焦る。
『何者かわからないまま逃げたら、あとあと怖いよ。捕まえよう』
「は?」
『大丈夫、任せて。わたし、無敵だから』
ここにあってもまだ笑顔だ。私は唾を飲む。
「怖くないの?」いくら幽霊になったとはいえ、この状況で恐怖しないなんて異常だ。
だって辻川日奈は、刺されて死んだのに。
『平気なふりをするのは、得意なんだよね』
日奈はいつもみたいに、完璧な笑顔で言う。
わたしから距離をとって、男の脇へと移動する。
男の鼻息が、すふう、すふうと私の方へ近づいてくる。五メートル。私の足はすくんで力が入らなくなってきた。
『あなた誰、あんでこんなことをするのって訊いて』
「正気?」
『いいから』
私は頬を引き攣らせ、男に向き直る。舌をもつれさせながら言う。
「あんた、誰? なんでこんなことをするの」
男は目を見開いたのか、サングラスの上の眉がぐっと上がった。直後、うおおと声を上げ、包丁を両手で握り、突進してきた。
「だめじゃん!」
『どりゃ!』
日奈はいつのまにか、右手に大ぶりの石を持っている。河川敷に落ちていたものだ。それを思い切り振りかぶり、男の頭部へ投げた。見事に、こめかみに直撃した。サングラスが舞い飛び、回転しながら落ちる。男の目はこれでもかというくらいに見開かれている。無防備に、尻餅をどてん、とついた。手から包丁がこぼれる。私はそれをとっさに拾い、高架の足元に投げた。コンクリートの壁に柄がぶつかり、カッと音を立て、雑草の中に落ちた。
男は、なにが起こったか理解できないという顔で目を丸くしている。想像よりずっと若い。顔に見覚えがある。
再び、日奈が石を握って男の前に立つ。
男の瞳孔がぐんと開く。彼には、空中に石が浮かんでいるように見えているだろう。目を細め、漫画みたいに手で擦っている。
14
『どうやってここを知ったの』
言って、日奈がこちらを見る。それを訊いてほしい、という意味だとわかった。
けれど、私は言葉を変えた。
「あなた、同じクラスの男子だよね」
『え、知り合い?』
「図書館にいた」
『あ!』
男子は、泣きそうな、でも怒っているような、歪んだ表情になった。
「槇原だ。名前、覚えてくれてないなんて」
「かかわりがない相手は、覚えるの苦手なんだよ」
男子は苛立った様子で、立ち上がろうとする。日奈が、握っている石を構える。それを見た彼は、びく、とまた尻餅をついて機会を逸する。座ったまま、石と私を交互に見上げ、恐る恐る口を開く。
「この石、どうやってるの?」
「企業秘密」
「やっぱりトリック動画なんだ」
「動画? 私の動画を知ってるの」
血の気が引いた。
家族はおろか学校関係者にも、誰にも教えていないはずなのに。
「この土手を知ってたから。踊っているのがきみだということも、すぐに気づいた」
『古参ファンだ』
と、日奈がつぶやく。うるさい、と手で払う。
「最初は偶然見つけた動画だった。それで、かわいい衣装だなと思った」
「衣装というほどのものでもないでしょ」
私はつい、自分の衣服に視線を落とす。意識的に露出度が高いものを選んでいる。そういう服装を見られたことよりも、学校での地味な私からは遠い一面を持っていることを知られたのが、気持ち悪いくらいに恥ずかしい。
いや、動画を投稿した時点で、その危険性は理解していたはずなんだけど。
『どうして刺そうとしたの?』と日奈が言う。
「どうして刺そうとしたの」と私が繰り返す。
「忠告に来たんだ」
「忠告」穏便でない言葉に、頬が緊張する。
「だって、正しい売り方をしていないから」
「なにそれ」
「幽霊なんてトリックを使わなくても、きみは前の路線のままでいい。それを続けてればよかっただろう」
「路線ってなに。全然わからない。そのためだけに、包丁を持ち出したの?」
「あの包丁は、おもちゃで、ただの脅しの道具だ」
日奈と顔を見合わせる。彼女が、包丁の落ちた地点まで行って、持ち上げる。刃を指先で押すと、柄の方に引っ込む。
『ほんとだ』
彼はもう、日奈のポルターガイストに驚くことをやめたらしい。疲れたように、ため息をつく。
「気づいてないわけないでしょう、コメント欄にアンチが沸いてる。きみが前のままの路線でいれば、そうやって攻撃されることもないのに、再生数が欲しいがために妙に狙ったことをするからよくない。前に戻せばいいって、それだけのことが、僕だってコメント欄に書いて、いいねもしてくれたのに、伝わっていないみたいだから、来たんだよ」
いいねは、ほとんど無作為にやっている。チャンネル登録者数が増えてからは特に。印象に残ったコメント以外は正直、覚えていない。
だがそれを差し引いたって、言っていることが滅茶苦茶じゃないか?
再生数のために妙に狙うのが嫌だというのなら、露出の多い服を着ていることだって同じ理由だとわかるだろう。アンチが増える、と言いながら、彼自身が今やアンチになっている。それを自覚していない。
15
「そのうち僕以外にも、人が来るよ。コメント欄に場所を書き込んでおいたから」
二の腕が粟立つ。頭に血が上る。
「どうして、そんなことを」
「忠告だと言ったでしょう。こんなことを続けて仮初の人気を得たら、きっといつか、悪いファンに襲われる。その前に、綺麗なまま終わった方がいい」
「どうしてそこまで、私にこだわるの」
彼はマスクを顎の下にずらした。
「決まってる。一緒の時間を過ごしてきたからだ」
決め台詞でも言ったかのように、したり顔で私を見つめてくる。その瞳の自分勝手な幼さに、私は顔をしかめる。生理的嫌悪感が尾骶骨から這いずり上がってくる。
『警察に、突き出す?』と日奈が言う。
本心ではそうしたい。でも。
「幽霊動画について話さなきゃならなくなる。説明できない」
『そっか』
面倒事はごめんだ、少なくともクドーフユオミに会うまでは。
私は彼を見下ろし、できるだけ冷たい声を出す。
「今回かぎりは見逃してあげる。二度と私の前に現れないで」
足元のスマートフォン固定台を回収し、行こう、と踵を返す。彼女は『うん』と頷いて私のあとに続く。ふたりとも、振り返ることはなかった。
16
彼は翌日からも、平然と学校に来た。
私の方を見ることはなかった。
謝罪があるわけでなく、引き続きストーキングをしてくるわけでもなく、まるで何もなかったかのように、一般的な男子高校生として過ごしている。休み時間には男友達と、生配信アプリをやっている女子高生の中で一番かわいいのは誰か、というような話を和気あいあいとしている。その切り替えの早さが、私には気色悪かった。
窓際の、自分の席で、私は休み時間を過ごす。隣にいる日奈が言う。
『もうあの河川敷、行けなくなっちゃったね』
「うん」
『動画、どうしよっか』
「どうしようもないよね。他に場所、知らないし」
『え、諦めちゃだめだよ。クドーフユオミ、小学生のときから思ってる相手なんでしょ?』
「好きなわけじゃ別にないってば」
『これだけ努力してるのに?』
「これを努力というのかな」
ひょっとしたら、私もあの男子と同じなのではないか、という考えが頭をよぎっていた。
「私は単に、自分の気持ちを確かめたいだけ」
『なら、ならさら会ってみないと、すっきりしないよ。任せといて。わたしがどうにかするから』
「どうにかって?」
『新しい撮影場所を見つけてくればいいんでしょ? 大丈夫、幽霊は時間を余らせているから』
「どうして、そこまでしてくれるの?」
『だって、あなたの気持ち、確かめないと絶対に後悔するから』
日奈は大きな目で私を見つめる。その迫力に気圧されて、私はつい「わかったよ、ありがとう」と返した。
17
こうして彼女は、私から離れて旅に出た。
出会ってから初めてのことだった。
彼女は、夜になっても帰ってこなかった。霊は、フィクション作品みたいに飛ぶことはできない。かといって自転車を漕げば、町がパニックになるから、自分の足と公共交通機関を使ってめぐるしかないようだった。でも、なによりの武器として、疲労がない。
だから朝も昼も夜も関係なく、歩き回れる。
ただ、スマートフォンを持っているわけではないから、彼女がいつ帰ってくるかはわからなかった。私はただ待つしかない。
彼女がいなくなった直後から、私の慢性化していた倦怠感が、嘘みたいになくなった。
思考がクリアになり、世界が晴れやかに見えた。そのこと自体には複雑な気持ちになったけれど、でもおかげで私も、日奈の未練を晴らす方法について、もっと引いた視点で考える機会を得た。
そうすると、別れ際に彼女に言われた言葉が、妙に気にかかってきた。
夜、私の部屋はずいぶんと静かになった。
狭くなったシングルベッドに横向きに転がり、イヤフォンを耳に刺す。
スマートフォンのマイチューブで「辻川日奈 ドリームマンション」と検索した。
どこかの誰かがアップした、当時の番組映像がヒットする。その動画が存在すること自体は、以前事件について調べたときに見つけて知っていた。でも日奈が傍にいる間は、なんとなく、彼女の同棲生活を覗くのが悪い気がして見ていなかった。再生する。
生きている彼女が動いているのを見るのは、初めてだった。
マンションは、狭い1DKだ。それでも、歌手の男の子と日奈は、それなりに幸せに暮らしているようだった。スペースは分け合い、家事は分担し、プライバシーは尊重し合っていた。どうしたって踏み入り合わなければならない個室で、過剰に踏み入らないように互いを気遣っているのが、画面越しでも伝わった。
そのうえで、彼女は笑顔だった。
私に見せるのとは少し違う、アイドルとして完璧な笑顔ではなく、きちんと十七歳の少女であり女性としての笑顔だと、すぐにわかった。
やがてシーンは、シリアスな空気に換わる。
ある日の夕方、彼が酷く憔悴して帰ってくる。日奈は尋ねる。『なにかあったの?』彼は答える。『制作してた曲が、レーベルの意向で白紙に戻ってさ』
要するに、長い時間と手間をかけた創作物が、先に発売されたメジャーアーティストの曲と類似点があるとのことで、発売無期限延期になったという話だった。
私は、物作りでお金をもらったことなんてないから、それが正当なことなのか、理不尽なことなのかはわからない。やるせなさも、どれくらいのものなのかは想像できない。
でも日奈は、彼の背中を擦ってあげていた。彼が『落ち着いてきたよ、ありがとう。ごめん、君も疲れているのに』と、申し訳なさそうに微笑む。その表情は、今の日奈に似ている。
『いいの、わたしは人の話を聞くのが好きだから』
『ありがとう』
と、心底安心したように、彼が頬をゆるめる。
『君のやさしさには、本当に救われているよ』
18
日奈は、三日ぶりに帰ってきた。
日曜日のことだった。なにをするでもないけれど、家にいるのが落ち着かなくて、あの高架下の河川敷を遠巻きに眺められる、土手の上に立っていた。
すると、土手の遠方から歩いてくる人影が見えた。
すぐに、きらきらと光を透かす半透明の人間だと気づいた。
「久しぶり」
と私の方から言った。
『久しぶり。やっと見つけたよ、家にいないんだもん』
「ごめん」
『ここに来たら危ないでしょう』
「なんとなくね、思い出の場所にお別れをしておきたくなって」
『その件だけど、新しい収録場所を見つけたよ。隣の駅近くだから、今までよりは遠いけど、自転車に乗れば全然いける距離だと思う』
自慢げに笑ってみせる日奈に、私も弱い微笑みを返す。
「まさか、本当に見つけてきてくれるなんて」
『必要なことでしょう? 彼との関係を前に進めるために』
けれど答えはもうなんとなく知っていたから、代わりに言った。
「私からも、朗報があるよ」
『なに?』
「クドーフユオミから、ダイレクトメッセージが届いた」
チャンネルは放置していたけれど、その間にもアーカイヴの動画が再生数を伸ばし続けた。日奈のいない間に、チャンネル登録者は三十万人を超えた。その直後のことだった。
日奈にスマートフォンの画面を見せる。マイチューブのメッセージ機能だ。
〝コラボのお願い〟とある。
要約すると、一緒に動画を撮らないか、という誘いだ。あちらは私が昔の同級生だと気づいていないようすだ。すべて上手くいっている。
もともと、動画の撮影と投稿は、彼に会うために始めただけのものだ。もしもクドーフユオミと話をできたなら、もうそれ以降は動画主としてやっていくつもりはなかった。
「だから、私はもう動画の撮影は――」
と、私が言い切るよりも先に、彼女は感動したように両手を叩いた。
『うそ? やったじゃん!』
「でも、あなたの苦労が無駄になってしまう」
『わたしのことなんていいよ、よかったね、本当によかった!』
日奈の目元はうるんでいるように見えた。でも、光の屈折かもしれなかった。
「うん、ありがとう」
私も素直に、頬を緩めた。
「会いに行く予定はもうすり合わせたよ。明日に決まった。それで、日奈にもぜひ、来てほしいんだけど」
『え、わたしもいいの?』
「だって元々彼の目的は、私じゃなくて、あなただと思うし」
『そんなことないよ、日奈の努力の成果だよ』
そんなことない、わけがない。それでも、そんなことないと言ってくれる彼女は、お手本みたいにやさしい。
『私は動画にしか映れないから、現実には見えないし声も聞こえないんだよ? だから彼と話すのはあなたになる。あなたが主役になるよ、わたしをうまく利用すればいいんだよ』
私は目の奥に滲むものを、指先で押さえる。
「いや、そう簡単な話じゃないんだ、私の場合」
『どういうこと?』
「あとできっちり説明させてもらう、あなたには言っておなきゃいけない気がするから。でもその前に、はっきりさせておきたいことがある」
『なに』
「あなたの未練について」
『わかったの?』
「うん、あなたと別れてから、改めて調べてね。でも答えは、最初にあなたが教えてくれていたんだ。それにずっと気づけなかった、私の落ち度だった」
日奈が眉間を狭める。意味がわからない、というふうに。
「あなたは言った。彼のファンが彼を刺しに来た。それを止めようとして、刺された」
『うん』
「それって、彼をかばったってことだよね?」
日奈と一緒に読んだ記事も、そういうニュアンスで書かれていた。辻川日奈は献身的で、聖女だと。まるで彼を守るために、身代わりとなって死んだかのように。
「犯人を止めようとしたのと、彼をかばったのでは、言葉のニュアンスが全然違う。あなたはどちらなのかな?」
それは、と彼女自身、迷うように呟いた。
消え入るような、戸惑うような声が頭の中でクリアに響く。
それだけでもう、答えなんて貰わなくても、真実が見えてしまった。
私は、核心に触れる。
「あなたは、彼のことが好きだったんだね」
19
こんなことをいちいち言葉で確認しなくてはいけない、未練というものが憎かった。
あまりに無粋だ。彼女の尊い感情が、私が言葉にするほどに嘘へと堕ちてしまう気がした。
それでも彼女がここから解き放たれるためには必要な工程だから、言う。
「告白されて、断った、とは聞いた。みんなのアイドルで、恋愛は禁止だからって。でも肝心の、あなたの気持ちを確認していなかった。これも私の落ち度だ」
『そんなふうに言わないで』
「いいえ。もっと早くこのことを確認していれば、あなたはもっと早く消えられたかもしれない。なのに私が無能だったから、あなたとこんなに長い時間を過ごすことになってしまった」
『迷惑だった?』
「ええ、とても。だって同情してしまうくらい、あなたに感情移入してしまっているから」
日奈は、嬉しそうに、悲しそうに目を細める。そうすると、彼女の瞳を捉えづらくなるということに今さら気づいた。半透明で、ただでさえしっかりと見つけられない瞳が、もっと不確かに光を屈折させてしまう。
『ごめんね』
と彼女は困ったように眉を下げ、優しく微笑む。
「そんな表情しないでよ」
と私が苛立つと、彼女はもっと困った顔をする。
『どうして、わたしの気持ちに気づいたの?』
「ドリームマンションの映像を見た」
『それだけ?』
「それで充分だよ」
あえて挙げろと言われたら、いくつも違和感はあった。
最初の違和感は、犯人を恨んでいないのか、と私が尋ねたとき。自分が犯人の前に飛び出しただけだから、と彼女は言った。その言い回しは、事故というよりも、意図的に彼をかばって前に出たように受け取れる。
包丁をもった男子が私たちの前に現れたとき、彼女が怯えないことに私は驚いた。『平気なふりをするのは、得意なんだよね』と彼女は言った。あの言葉は本当は、私を守るときの話ではなかったのではないか? 私は出会って間もないとき、彼女に言った。「予期せぬ死だから未練はそりゃあるよね」彼女は答えた。『そうだね、できれば死にたくはなかったね』できれば。
彼女は、彼をかばって飛び出す瞬間、自分が死ぬ可能性も頭をよぎっていたのではないか? それでも、自分を犠牲にして彼を守りたいと思ったのではないか?
そこまでして守りたいと思える相手なんて、そういるもんじゃない。
「でも一番は、あなたが私の目的にすごく協力的だったこと。私がクドーフユオミに会うことを諦めようとしたとき、あなた、なんと言ったか覚えてる?」
『いえ』
「あなたの気持ち、確かめないと絶対に後悔するから」
それはそのまま、彼女自身の後悔を意味するんじゃないかと気づいた。
「彼に再び会って、好きだという気持ちを伝えること。それが、あなたの未練だ」
20
私は言ったあと、大きく息を吸い、吐く。
間違えているはずがないと思った。一緒にいる時間が長すぎた私は、彼女のことを知りすぎたから。
でも、彼女は、ふっと笑う。
「なに?」
『ごめんね。本当は正解と言いたいんだけど、でも、できない』
「え?」
ここまできて、なにを言うんだ、と思った。
『わたしは、たしかに彼のことを特別に感じていた。けれど、それがどういう気持ちなのか、自分ではわからなかったの、ずっと。だって、ダンゴムシを接着剤で固めた日から、わたしは、わたしの気持ちがわからないままなんだから』
私は彼女の声を聞く。それは今、頭の中に響いている。出会ったときのひと言目から、ずっと響いている。
『わたしのやさしさは、本当にやさしさなのかな? わたしの自己犠牲は、本当に自己犠牲なのかな? わたしの好きは、本当に好きと言えるものなのかな?』
彼女は胸を押さえて言う。
『ねえ、わたしのこの気持ちは、彼に伝えたら嫌われないかな』
その表情は、泣きそうなのに、どうしてか映像の中で彼に見せていた、彼女の自然な笑顔と重なった。
そうして私は、じんわりと、頭の中の声と融合するように、すべてを理解した。
きっと私が間違っていた。
彼女の未練は、気持ちを伝えられなかったことじゃない。一緒にいられなくなってもいい、と瞬間的に覚悟できるくらいに彼を思っていたのに、そんなに強い気持ちさえ信じることができないことが、心残りなのだ。
拠りどころのない迷子みたいに不安そうな目をする彼女に、私はふっと微笑む。
「なるほど、すべてわかったよ」
『なにが?』
「ここで私が他の人なら、それを恋だと断言してあげられた。そして、伝えるべきだと言ってあげられた。そうしたらあなたは、心置きなく天に昇れたのかもしれない。でもね、私も、それを言ってあげられない。だからこそ、あなたのパートナーに選ばれたんだと思う」
『なんの話をしてるの?』彼女は、もっと戸惑うように目を泳がせる。
「私がなぜクドーフユオミに会いたいか、その話を聞いてもらっていい?」
『うん、聞かせて』
「小学生のころ、クラスの男子たちにばかにされていたんだ、私」
誰にも、家族にも明かしたことのない話だ。つまらない話。
「原因は、私は運動神経が異常に悪かったことにある。小学三年生のときだった。跳び箱に失敗して顔から落ちて、私は鼻血を噴き出した。その血痕が顔について、赤い跡が肌に沁み込んでなかなか消えなくて、男子たちから、赤ひげとあだ名をつけられ、馬鹿にされた」
『ひどい』
「小学生男子の残虐性だよね」
『それを助けてくれたのが、彼?』
「真逆。そのグループのリーダーだった男子の名が、工藤冬臣」
『えっ』
「工藤冬臣は運動神経がよくて、友達が多くて、家も金持ちで有名だったし、いわゆるカーストのてっぺんにいる男子だったから、私にはどう抗うこともできなかった」
彼にとって私はおもちゃだった。
毎日、ばかにされて、「触ると鼻血がうつるぞ」と傘で小突かれて、下校中でも遠くから「またなー、赤ひげ!」と大声で呼ばれて、私は憔悴した。
『最低だ』
「うん、最低なんだよ」
彼女は恐る恐る、上目遣いで見てくる。
『じゃあ、あなたが会いたいと言っていたのは、復讐のためなの?』
「そこまで簡単だったなら、よかったんだけどね。ある日、奇妙なことがあったんだ」
あれは小学五年生のとき、隣町の地味な資料館へ、学年全員で校外学習に出かけたあと、学校の靴箱に帰ってきたときのことだった。
「友達のいない私は、列の最後尾だった。引率の先生も、他の騒がしい子たちの面倒をみながら先に行ってしまったから、私はひとりで靴を脱いでいた。そのとき、かがんだ拍子に、背負い鞄の蓋が開いて、入っていたいくつものプリントが地面に散らばってしまった。すると、そのタイミングで私の頭上から人影が落ちた。顔を上げると、立っていたのは、工藤冬臣だった」
『先に帰ってなかったんだ』
「私もそう思って尋ねた。すると彼は、『学校に着く直前に、先生の目を盗んで公衆トイレに寄っていた』と言った。それから彼は、私が落とした資料をささっと拾うと、手渡してきた。私が両手で抱えるように受け取ると、今度は私の脱いだ靴をひょいと持ち上げて、靴箱に入れて、かわりに私の上靴を取って、私の足元に置いてくれた」
日奈が眉間に皺を寄せる。
『どうして?』
「それが、わからない。はやく教室に戻って終わりの会を始めたかったからかもしれないし、もっと別の理由があったのかもしれない」
本当に、わからない。
『それで?』
「彼のことが気になるようになってしまった」
私は、自分を嘲るように唇の端を歪める。
「自分でもおかしい感情だと思ったよ。だって、翌日からもそれまでと同じように嫌な目に遭わされるんだよ? でも、私からすると、他の男子からされるのと、彼からされるのでは、同じ嫌がらせでも違う気持ちになった。この感情自体が惨めだ、ということも自覚していたの。でも、背後から近づいてくるのが、せめて他の男子じゃなくて彼ならいいと、いつも祈っていた」
21
日奈は、唇を少し内側に織り込んで、言葉を慎重に選ぶようにした。
『それって、彼を好きだったってこと?』
「わからない。だからもう一度会って、確かめたいんだ」
私が日奈の感情に気づけたのは、今となっては必然だったのだと思う。
私も、名前のない感情の、名前を探している。
目を閉じ、瞼を擦り、再び開く。
すると、日奈の体が、青白く発光していることに気づいた。線香花火のような、水晶を粉砕した欠片のような、小粒の光が彼女の輪郭からぱちぱちと弾け始める。
「日奈?」
と、思えば私は初めて彼女の名前を呼んだ。
彼女は、はじめは自分でも驚いた様子だったけれど、すぐに眉をハの字に下げて笑った。
『ごめん、わたしは一緒に行けないみたい』
その表情は、彼女が彼の前で見せていた笑顔に近かった。その笑顔もみるみる、私の前で光の粒に変わってゆく。
その時が来たのだとわかった。
「うそ。まだ、あなたのなにも叶えてあげられていないのに」
『うん。でも、もう充分』
「なにが。なにが、どう充分なの」
『わたしはひとりじゃないと、わかったから』
まるで、すべての呪いが解けたみたいに満点の笑顔を、彼女は見せてくる。
そんなの、ずるいよ、と言いたかった。
彼女と、ようやく本当の友達になれそうだと思った途端に、あまりに、あんまりだ。
でも、彼女にとってはきっと、これがもっともいいかたちだから、私は無理やりに微笑んだ。
「そっか」
答えながら、私は、なんだか泣きたくなる。唇の内側を噛んで堪える。
『ひとりで行ける?』
「うん、なんとかね」
『怖い?』
「うん、人生で一番」
『わたしに憑りつかれたときより?』
その声はもう、終わる季節の通り雨みたいに遠い。笑顔はもう、思い出の中の水平線みたいに淡い。私は強がって、きつく笑ってみせる。
「私はあなたを怖がったことなんてないよ」
日奈は、ふふ、と息を混ぜて微笑む。
『彼に会えたら、靴を取ってくれた理由を訊くの?』
「今は、訊くつもりでいる。でも会った瞬間に、訊けなくなってしまうかもしれない。そしたら、なにも話さずに逃げ帰ってくるかも」
『そっか』
「うん」
『がんばってね』
「うん、がんばる」
『ありがとう。元気でね』
「ううん、こちらこそ。日奈も、安らかに」
彼女はもう一度、ありがとう、と言ったように見えた。でもその声は聞こえなくて、彼女の口元と一緒に、あとかたもなく消えた。
私はしばらく、彼女が消えたあとの残光を見つめていた。
でも、彼女のいなくなった夏に、青空は鮮やかすぎる。目をゆっくりと細め、振り払うように、ぎゅっと瞼を瞑る。目の端でかけらが弾けて、私はもう、大丈夫になる。
ポケットからイヤフォンを出して、耳にはめる。
ジャックをスマートフォンに刺して、彼の動画を再生する。
息遣いが聞こえ、歌が始まる。
マイクを優しく包む彼の手を、まばたきせずに見つめる。
私は、決着を付けに行くんじゃない。
私たちしか知らない感情の名前を、確かめに行く。
>次話 coming soon
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