魔法解除班見習いハルの恋未満(完結)
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恋を一番とする人たちの気持ちがわからない。
誰かを愛する気持ちは美しい、と言う一方で、心は移りゆく儚さが尊いとも言う。
そんな曖昧で確信の持てないものを、なぜ自分の軸にできるのだろう?
もしも自分の中心を形作っている人に裏切られたら? そう思うと怖くてたまらない。
だったら僕はそこからは遠く離れた場所でひっそりと生き、しずかに消えてゆけたらいいや、なんてふうに思っていた。
ただ、彼女のことだけは。
今でも、どう整理を付けたらいいかわからないでいる。
これは、僕がほんの二週間だけ一緒に過ごした、とても素敵な女性の話だ。
あのとき僕らを引き合わせたものは紛れもなく、魔法だった。
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真っ暗なテレビ画面だ。
おどろおどろしいクラシック風のBGMが流れはじめたかと思うと、ぽっ、と一枚の写真が映し出される。
はじめ、写真は遠い。それが徐々に拡大され、写されているのは修学旅行生だろうか? 河川敷に体操服姿で立つ学生たちを撮ったものだとわかる。全体がはっきり見えるアップになると、画面はそのまま数秒間、静止する。
曲がヴァイオリンの弦をわざと軋ませたような不快な大音量に達したところで、ふっと画面は真っ暗に戻る。
じんわりと滲むように、赤い文字が浮かぶ。
『おわかりいただけただろうか?』
画面はスタジオに切り替わる。落ちていた照明がじんわりと明るく戻り、観客のざわめきの後、黒いスーツを着たMCが『いやあ、これは、どういうことなんでしょう』と神妙そうな声で、隣に座る和服の解説者をうかがう。
『ええ、これはですね、比較的よくある心霊写真でして――』
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黒髪で彫りの深い男、椎名広臣(しいなひろおみ)は、それまで真剣な顔つきで前傾姿勢だったが、途端に堪えきれなくなったというふうに、ぶふっと吹き出し、上体を起こした。
「いやあ、すばらしい。ひさびさに見ると楽しめるもんだな、こういうのも」
「そう? 退屈だと思うけど」
と、栗毛でシャープな顔立ちの青年、生田(いくた)ハルが興味薄そうに返す。
年代ものの布張りソファーの、両端にそれぞれ座っていた。
ハルは右のひじ掛けに顎を乗せ、両手を外へ放り出して溶けている。椎名はシートの左側にどっしりと、玉座にでもすわるように深く腰掛け、片腕は背もたれの後ろ側へ垂らし、もう片方の手でリモコンをくいくいと振っている。
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「しかしなんでまた、冬の昼間に心霊番組なんてやってるのかね」
「サブスクリプションだよ、これ」
「関節技(サブミッション)?」
つまらないダジャレを、真顔で口にする椎名に、ハルはため息をつく。
「月額制課金のこと。定額を払えばサービス内の映画、アニメ、バラエティ番組なんでも観放題ってやつ」
「へえ、じゃあ数ある作品リストからわざわざ心霊番組を流してるのか。変人だな、お前も」
「ランダム再生機能だよ、アップされたばかりの新作の中から勝手に流れるの。ていうか心霊番組で吹き出して笑うほうが、よっぽど変だと思うけど」
「だって、おっかしいだろう。『足が一本消えているのは、先祖霊が怪我を予言してくれているからですねぇ』だぜ?」
椎名はわざとしわがれた声を作って、誇張気味に真似る。表情も、唇の端を落としてほうれい線を強調している。こういうむかつく仕草をさせたら右に出る者はいない。
「霊能者がそう言うんだから、そうなんでしょ」
「いやいや、脚を消してる暇があったら『足の怪我注意』って文字を出してくれたらいいだろ」
「そんな道路交通標識みたいなことしたら雰囲気が出ないじゃん」
「雰囲気って」椎名が大口をあけて笑う。「お前も霊能者、信じてないんじゃねーか」
「当然でしょ。幽霊、超能力、宇宙人、タイムトラベル、この世界でオカルトが起こったらまず疑うべきは――」
4
言いかけたところで、ぴぴーっと電子音がキッチンの方から聞こえた。ふたりともがぴく、と震える。ハルが、声を低くした。
「炊けたね」
「ああ」
職業柄、いつでも出動できるようにボロいシェアハウスで暮らしているハルと椎名だが、ハルは料理を作らない。どへたくそだからだ。
椎名は雑なくせに味は美味いので必然的に彼が料理担当になるが、買い出しを面倒くさがる。結果、総菜屋を頼る機会が増える。
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ただし暖房に慣れた文明人にとって、昼間とはいえ一月の外は死地だ。
「今日の気温知ってるか。四度だぜ」
「それは最高気温。今はまだ二度」
「人が生きる温度じゃないなー」
「だよねー」
たっぷり五秒間、たがいに沈黙してから、二人同時に言った。
「「じゃん、けん!」」
「「ぽん!」」
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「はい僕の勝ちー」
「なあ今、一瞬遅くなかった? チョキからパーに変えなかった?」
「今日は僕、エビフライがいいな」
うげえ、と椎名は舌を出してみせる。
「昨日も揚げ物だったろ。いいかげん飽きねーの?」
「だってあそこの揚げ物屋が、なんだかんだで一番美味しいじゃん。野菜もとれるし」
「野菜つっても、かきあげだろ。油が胃にくる」
「僕、椎名と違って若いから」
「はんっ。三十四が年寄り扱いとは、とんだSFに来ちまったもんだな」
「それではお客さま、時間旅行へ行ってらっしゃーい」
ハルが笑顔で玄関のほうへ促す。
椎名は、はーあっ、と波動でも出すように息を吐き、腰を上げる。
へこたれてたソファーがぎしっと軋んで、ゆっくりと形を戻す。
リビングと玄関は互いに見通せる。ハルがひじ掛けの上から笑顔で手を振っている。椎名も後ろ手でひらひらと返してから、ダウンジャケットを羽織ると、クロックスを引っかけて出ていった。
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夫婦でやっている揚げ物屋までは徒歩三分だ。わざわざ自転車を出すほどじゃないが、歩けば身体の余熱は逃げる距離なのが憎い。
「あら、いらっしゃい」
「ちわす。エビフライ二本、コロッケ二個、野菜のかきあげをふたつ」
「あいよ、毎度ありがとうね」
おばちゃんは愛想のいい笑顔でてきぱきとトングを操る。
椎名とハルはどうにも、近隣住民から無職の二人暮らしと思われているようで浮いていて、これほど普通に話してくれるのは、近所ではこのおばちゃんくらいだった。
おそらく四十代後半くらいで、本人曰く子供ふたりを立派に成人させ、だんなさんを尻に敷いているらしい。事実はどうか知らないが、だんなを尻に敷いていると快活に笑える家庭は、いい家庭なんじゃないかなと椎名は思う。
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そのおばさんが、透明のプラスチックケースにかきあげを乗せて輪ゴムで止めながら、なんの気ない様子で言った。
「そういやこの前、あんたのとこの同居人くんを見たよ。ユニクロで、他のお客から連絡先を訊かれてた。最近の娘さんはアグレッシヴだね」
「おばさん、ユニクロなんて行くんすね」
「おばか。この仕事にヒートテックは必須だよ」
「ああ、なるほど」
「あの子、本当にもてるねえ」
「そりゃ、あのルックスですからね」
こんな田舎の港町には似合わない、モデルのような股下と小顔、それに整った顔立ちだ。それを特別視されることにあいつは慣れているし、表立って嫌がりはしない。が、それを理由に好かれて嬉しいとも思っちゃいないだろう。
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「で、どうなりました?」
「相手にしてなかったねえ」
「でしょうな」
「あの子、彼女いるの?」
「いませんよ」
「どうして作らないの。理想が超高いとか? それとも男を好きなタイプ?」
それを俺に訊くか? 直球すぎる質問に苦笑しつつも、椎名は首を振る。
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「あいつはもっとシンプルに、人間に臆病なんですよ」
口に出すと、胸の奥が少しささくれる。
こんなに軽く言えるほど、あいつの奥にあるものは柔らかくない。だが軽く言わなければ、あいつを哀れんでいるみたいでもっと嫌になる。
おばちゃんは大して気にしていない調子で、男前なのにねえ、と笑っている。そのずれた反応に、椎名は少し救われて、微笑んだ。
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食事を買いに行くじゃんけんで、ハルは椎名に負けたことがない。
いかさまをしているわけじゃないし、まさか椎名が気を使って負けてくれているわけでもないから不思議なのだけれど、そういう星のもとに生まれているとしか言いようがない。
だから、たまに罪悪感から、すすんで買い出し役に手を挙げることがある。
揚げ物の翌日の、三時過ぎだった。前日の夜は玉子雑炊で、この日は昼食をヨーグルトで済ませたから小腹が空いていて、なにか入れたいな、というタイミングだった。
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「まじで? サンキュー」
と椎名は喜びを隠そうともせずにソファに寝転がり、テレビをつける。
「俺、ジャンクなのがいいな。ただし揚げ物はパスな」
行くと言い出したのは僕だけれど、その軽いサンキューと偉そうな態度がなんだか癪に触るな、とハルは頬を膨らます。
こういうときハルは決まって、店内で時間をちょっと多めに潰してから帰ってやると決めていた。
どこにしようか。ココイチ? いや、米は三時のご飯には重すぎる。ミスド? ジャンクというのとは違うな。椎名の要望をきかないと、それはそれでうるさいからな。
そう思い、反射的に浮かんだのはマクドナルドだった。
家から近く、比較的長居もしやすい。
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ハルの多彩な趣味、というか飽き性なので色々変わるだけなのだが、そのうちのひとつとしてマックビンゴというひとり遊びがある。
店に入ったあと、ジュースだけを頼んで注文カウンターの傍のできるだけ近い席に陣取る。通い慣れた近所の店舗だと、ガラス張りの窓際の、高い椅子のカウンター席が定番だ。
持ち込んでおいたメモ帳に三目並べの要領で三×三のマスを作り、マス内には店のメニューをひとつずつ、それぞれ異なるものを書く。書き終えたら客の注文に耳をそばだてる。
自分が書いておいたメニューが注文されたら、そのマスに○を付けてゆく。
ビンゴになったらクリア。デザートをひとつ買っていい。
ビンゴが揃わなければデザート抜き。それだけのルールだ。
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すでに左上と中央上、それに中央下が埋まっていた。本命のはずだったド真ん中の三角チョコパイがなかなか来ないな、このままだと、道連れで椎名のご飯も遅くなっちゃうぞ、とわくわくしていたときだった。
「なにをしているの?」
耳元で急に声をかけられ、「わ」と思わず声が出た。
左を見れば、小学校高学年くらいだろうか、少女がこちらの手元を覗き込んでいた。彼女はハンバーガーを今まさに食べ終えたようで、口元をナプキンで丁寧に拭っていた。
「ああ、いや、ちょっとしたゲームを」
「さっきから見ていたのだけれど、メニューでビンゴをしているんだよね? どういうルールなの」
彼女は上唇と下唇をぱっ、ぱっと二回合わせて、ナプキンをトレイの上に置いた。食べ終えた包装紙が、律義に畳まれ置かれている。
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少し違和感を覚えた。小学生にしては大人びた雰囲気の子だ。口調も、ため口をきいてくるのに、無理を感じない。
意識するでもなくハルは彼女にルールを説明していた。
「お客さんの注文を聞いてね、マルをするんだ――」
少女はふむふむと真摯に聞いていたが、すべてを聞き終えてから納得のいっていないようすで眉間を狭めた。
「え、デザートを食べていいかどうかを決めるためだけに、そんなに時間をかけるの? 大変じゃない?」
「まあね。でもできるだけ時間をかけるのが、本来の目的だから」
「なにそれ」
「同居人へのね、いじわる」
「けんかでもしているの?」
「そういうわけじゃないけど、買い出しをさせられてる腹いせかな」
「ふうん」
少女は畳んだ包装紙の横に置いてあった、黒いカップを手に取り、薄い唇を湿らす程度に飲む。その小柄なカップに、ハルは目を瞠る。
マックカフェバイバリスタの、エスプレッソ。
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「きみ、ほんとに小学生だよね?」
つい口をついて出た。
「は? なにその質問」
と彼女は、まあそういう反応になるよな、という返しを、半笑いでしてくる。
「ひとりで来ているの?」
マックのカウンター席は背が高いうえに背もたれがほとんどないため、低い身長だと無理をしているように見えがちだ。けれど彼女のたたずまいはとても自然だった。背筋がピンと伸び、キャリアをこなしてきた女性、という風格さえある。
「ええ」
「珍しいね」
「そう? まだ三時台だし、そんなに変でもないと思うけれど」
「最近の子はそうなのかな」
彼女はランドセルを持っていない。シックなポーチだ。小学生の終業時間は二時から三時ころだったと思うから、家に一度帰ってから来ているのだろう。なら校則上も問題ない。
小学生がエスプレッソを頼んじゃいけないという理由もないしな、うん。
僕の方が、時代に遅れているのだろう。
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ハルが言葉を飲み込んでいると、少女にじっと見られていることに気づいた。
「な、なにかな?」
「お兄さん、なんだか大人っぽい人ね」
大人っぽい? ハルは笑いそうになる。それはこっちの台詞だ。
「二十四のわりには童顔って言われるよ」
「顔じゃないわ。ちゃんと、私を対等な目線で見てくれている感じがする」
「人は誰もが対等だよ」
「そうだけれど、そうじゃないでしょう。社会における子供と大人の立場というのは」
顎を引く。
やっぱり、小学生とは思えない言葉遣いをする。
「僕にはよくわからないな。僕、まともな社会人からは外れていると思うし」
「そうなの?」
「そりゃそうさ。少なくともまともな社会人は、マックでビンゴをしないでしょ?」
彼女は目を丸くし、それから、ふふ、と笑った。
なにがおかしいかハルにはわからないが、人差し指を軽く曲げて唇に少し触れさせる彼女の微笑みには感心してしまう。よくできたお淑やかな女性、というか、そういうキャラクターの、お芝居を見ているみたいだった。
「お兄さん、変わっているのね」
「大人っぽいのか、変わっているのか」
「大人っぽくて変わっているのよ」
「褒められているのかな?」
「ええ、とても」
「それはありがとう。でもそういうきみこそ、変わってると思うけれど」
「どこが?」
「そりゃあ、雰囲気が大人びているというか――いや、少し違うかな。達観している、自分が子供であることを受け入れている、が近いかも」
ひょっとすると、それを大人びるというのかもしれないけれど。
「それはきっと、勘違いよ」
「そうなの」
「少なくとも私は真逆。不満を隠して、大人しく子供をしている、が正しい」
ハルは唇の端を緩める。
「それも、おもしろい表現だね」
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「あ、チキンナゲット」
と彼女が注文カウンターを指さす。ハルは慌てて、ビンゴシートにチェックを入れる。
「ありがとう、聞き逃すところだった」
「揃った?」
「いや。惜しいね、右下だ」
「けれどダブルリーチでしょう?」
「うん。三角チョコパイさえ来ればなあ」
「ああ、あれ、甘ったるくて苦手。人気なの?」
「人気だと思っていたんだけどなあ。なんとなく、女子高生の定番というイメージがある」
それから、どうでもいいようなことをだらだらと話した。
女子高生に流行りのスウィーツから、海外で今話題の健康法についてや、近々控えているオリンピックがどうなるか。ジャンルはさまざまだけれど、どれも自分たちの私生活からは少し遠い話題で、なんだか非日常感のある時間だった。
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ガラス窓の外が、夕焼けに染まっていることに気づいた。空は強烈な赤に塗りたくられ、地上へ下がるほど青黒くグラデーションしている。ちらりと店内の時計を見る。十六時を過ぎている。椎名のことも、いい加減待たせすぎかなと思い始める。
「私、そろそろ帰らなきゃ」
と、少女が腰を上げた。
「そうだね、遅くまでごめん。おうちどこ? 送っていくよ」
「ありがとう、でもいいわ。家まで十分くらいだから、日が沈むまでには帰れるの」
「けど」
「大丈夫。お兄さんは、同居人さんのところに帰ってあげて。本心では、気になって仕方ないんでしょう?」
ハルは目を丸くする。
「なんでそう思うの?」
「さっきから、頻繁に時計を確認していたわ。私なんかの相手をしてくれて、ありがとう。お時間いただいちゃって、ごめんね」
彼女は優しく目を細めて笑う。
その目が、射し込む夕日で、熟れたオレンジのように染まっていた。
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椎名と自分のぶんのハンバーガーを買って、店を出た。
東へ向かう彼女の背中を見送る。日光がまつ毛にかゆくて、目を細める。
颯爽と歩く後ろ姿は、百五十センチもないだろう。けれど背後へ長く伸びる影のせいで妙にすらっと高く見えた。姿が完全に見えなくなってから、右手に持ったメモ帳を再び開いた。
トリプルリーチ。
結局、三角チョコパイは来なかった。だからデザートは、なしだ。
でも、もっと面白いものを貰った気がした。
スマートフォンを開くと、十六時十五分。椎名から着信履歴が二件届いていた。催促だろう。
速足で家に帰ると、ソファで溶けていた椎名にダミ声で「殺す気かよー」と恨み言を言われた。なんとなく優しい気持ちになって、「ごめんね」と微笑み、てりやきマックを奢った。
それはそれで、「え、どういう風の吹き回しだ?」と逆に気味悪がられた。
なるほど、こういういじわるの仕方もあるのか、と勉強になった。
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あの日以来ハルは、胃の体内時計がずれて日没前に軽く食べるのが定番になっていた。
三日後、再び同じくらいの時間に同じマクドナルドに行くと、またあの少女と会った。彼女はあのときと同じ窓際のカウンターに座っていた。黒くて小さいカップを口に当てていた。
「またエスプレッソ?」
「ルーティーンなの」
この子らしいな、と頬が緩む。
「もう食事は済ませた?」
「まだ。マックビンゴをしてみようかなと思って紙とペンを持って来たのだけれど」と彼女は机の上を指す。ポーチの横に、ハンディサイズのメモと赤ペンがある。「なかなか上手くいかなくて、諦めかけていたところ」
覗くと、ハッピーセットとチーズバーガー、ポテトのSに○がついている。
「慣れないうちは、ポテトは全サイズOKにしたほうがいいよ。イージーモード」
「ハードモードは?」
「ナゲットのソースで分岐する」
「なるほど」
とふたりで笑いあう。
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「今日は普通に食べない?」とハルは言った。
「今日は時間をかけなくていいの?」
「うん」椎名は晩飯まで我慢すると言っていた。店内で食べられる。「なにがいい? ついでに頼んでくるよ」
「じゃあ私、てりやきマックバーガーをお願い。お金はあとでね」
「OK。テーブル席のほうを取っておいてもらえる? 今日はこれから気温が下がるらしい」
最高気温が十度まで上がった一日だった。カウンターだと、寒暖差で足が冷えそうだ。
「うん、ありがと」
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テーブルに向かい合うと、別に無理をせずとも話は浮かんできた。
たとえば 食べ物の話だ。
ハルも彼女も苦手な食べ物はなく、互いにそれを密かな誇りとしていることが共通点だとわかった。ただし彼女は好奇心からなんでも食べ、ハルは親の教育で残すことが許されなかったのだと言った。もっとも好きな食べ物を、彼女はコーヒーとチョコレートだと言った。
「マクドナルドは?」
「子供っぽいから嫌い」声を潜めて彼女は言った。「でも、小学生ってお金がないでしょう?」
「ああ、なるほど」
言われるまで、小学生であることを忘れていた。
だったらここは奢ろうか、とも言いかけたが、そうする前に彼女から「奢ろうなんて考えないでね」と釘を刺された。「そういうのは、奢られる側が決めるものだから」
彼女のシンプルな革財布から小銭を受け取りながら、なんだか格好いいな、と思った。
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「お兄さんは何が好きなの?」
「パフェ」
「かわいい」
「ばかにしてる?」
「いえ、語源はフランス語のパルフェ、意味はパーフェクトだもの。芸術品だよね」
「お、詳しいね。そうなんだよ――」
25
別れ際に、どちらともなくラインのIDを交換しあった。今時の小学生はスマートフォンを持っているのも珍しくはないらしい。
そうしてハルと少女は「友だち」になった。
そのときになって、そういえば自然とプライベートな話題を言い合えていたことに気づいた。揚げ物屋のおばちゃんよりも深く話せた他人は、椎名を除くと初めてだ。
――いや、椎名でさえ、僕に食べられないものがない理由は知らないな。
ハルは自分の表示名を見つめる。「ハル」、偽名だ。彼女の表示名は「BLUE」で、これも本名じゃないことは明らかだった。
名前も知らない、けれどただの他人でもない。
友達でもともだちでもなく、友だち。ふさわしいような気がした。
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それから、彼女の授業が早めに終わる日は、一緒に早めの晩御飯を食べる機会が増えた。
椎名には「友だちと食べてくる」と正直に言った。別に椎名と一緒に食べなければいけない理由もないので文句は言われなかったが、「お前、友達いたのか」と驚かれた。「ひとりだけね」と笑って返した。
店は毎回変わっても、どこであれ周囲の目の客からの視線を感じた。
ハルと少女の年齢差が微妙なところだからだろう。親子にしては歳が近すぎるし、兄弟にしては離れすぎている。
でも気にならなかった。
「お兄さんは、いつも私と会ってくれるけれど、普段なにしている人なの」
と訊かれたのは、ミスタードーナツでのことだった。日で言うと、一週間が経とうとしていたころだ。ハルは口に入っていたポンデ黒糖の球を、水で飲み下してから言った。
「ステラ。魔法使いを捕まえる人」
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十五年前だ。世界中の人々が同時に、北極星から一滴の銀の雫が落ちたのを見た。
直後から、世界中で不思議な力を発現する者たちが続々と現れはじめた。
触れた物体を捻じ曲げる超能力じみたものから、発火させるもの、凍らせるもの、現代ではそれよりも脅威な交通信号を狂わせるものなど。
偉い人たちが必死に研究した結果、いくつかの事実がわかった。
効果の内容は「願い」に起因している。そして、ひとり一種類しか発現しない。
これらの力は正式に「魔法」と名付けられた。
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魔法には、厄介な点がふたつある。
ひとつめは、望まぬかたちで願いを叶えること。
たとえば亡くなった人に会いたい、なんて健気な願いも、死人を醜い姿でよみがえらせたり、逆に魔法使い本人の命を脅かしたりする。
ふたつめは、多くの場合、魔法使いは自身の魔法にも願いにも無自覚ということだ。
そのうえで魔法を解くすべは、ひとつだけ。
本人に願いを自覚させたうえで、願いを願いでなくすこと。
つまり、叶えるか、諦めさせるかだ。
ただし魔法になるほどの強い願いという時点で、前者は多くの場合において難しい。結果、後者を選択することになる。
こうして日本では、魔法使いたちに願いを諦めさせるために、警察でも自衛隊でもない国有の少数精鋭、魔法解除専門の部隊STELLA(ステラ)が結成された。
発足の会見で、強面の部隊長は言った。
「我々の仕事は、人の願いに決着をつけることです」
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「桜が咲いた?」
ハルはホットココアを入れていた手を止めて、横のシンクで洗い物中の椎名を見やった。
「ああ、一月(いちがつ)とは思えないほど、学校内に植えてある桜の木が四本全部、満開になったそうだ」
「冬の桜かあ、綺麗だろうね。昨日はちょっと温かかったから、それでかな」
「つっても最高気温、たかが十度だろ? それに一本ならまだしも全部だ、狂い咲きにしても限度があるだろ」
「魔法事件?」
「わからん。事件というには平和すぎる気もするが、お上は調べろと言ってる」
「場所は」
「東雲(しののめ)小学校」
うちからだと、車で十分(じっぷん)の距離だった。
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変に騒ぎにならないよう、夕方五時、児童が帰ったあとに伺うことにした。
最近はこの時間でも、もう日が沈んでいる。冷たい漆黒の夜道にフィアットパンダを走らせる。車の所有者は椎名だが、彼はハンドルを握ることを嫌うので、運転はハルがする。
正門前につけたあと、一旦椎名だけが降りて、門の横のインターフォンを押した。
しばらくあって、老人のような声で、はい、と応答が聞こえた。用務員さんだろう。
「ステラの者です」
椎名が端的に言う。本部があらかじめ小学校に連絡を入れてくれているので、開門はスムーズだ。
車を来客用スペースに駐車し、降りる。
そのタイミングで、案内担当であろう、スーツの、六十歳ほどの男性が校舎内から出てきた。眉をハの字に下げた笑顔で、腰を低くしながら迎えてくれる。
「この度は、わざわざご足労いただき申し訳ございません。本日はよろしくお願いいたします」
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いちばん人のいい教員が面倒な対応役を押し付けられたのだろうな、と見て取れた。
仕事柄、公的機関も民間企業も建築現場も足を運ぶが、出てくる人は大抵、やたら高圧的か妙に低頭かの場合が多い。「教員の溝口です」と彼は名乗る。
「どうも、よろしく」
と椎名はわしゃわしゃと頭をかきながら、あくびをする。
彼の服装は、家で着ていた襟の曲がったシャツをそのままに、ダウンジャケットを羽織っただけだ。
教員は、困惑したような愛想笑いを浮かべている。
ハルはすかさず自身のテーラードジャケットの懐から退魔手帳を出す。ステラが持つ身分証明証で、警察手帳みたいなものだ。
「本日はお仕事中にお時間いただき誠にありがとうございます。私(わたくし)、生田と申します。お手数おかけして恐縮ですが、ご案内よろしくお願いいたします」
教員が差し出された手帳、それからハルに視線を移す。
黒のコートに、オーダーメイドのネイビーのスーツ、精悍な顔立ち、ワックスで整った髪型とナチュラルだが清潔感のある眉――だらしない椎名のために、なんで僕がこんな苦労をしなくちゃならないのか。ていうか手帳は椎名も持ってるでしょ出せよ、と内心不満だが、これもお仕事だ。天使の笑顔を向けておく。
教員は、いろいろな言葉を飲み込んでくれたようで、ええ、よろしくお願いいたします、と微笑んだ。「現場は、こちらです」
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先導されながら、校庭のほうへとアスファルトを歩く。
椎名は周囲をきょろきょろと見渡しながら、鼻をすんすんと鳴らしている。犬か。
着いた先は、体育館とグラウンドの間の植え込みの前だった。
夜ではあるが、グラウンドのライトが灯されているので充分に視界はいい。
桜が、ある程度ゆったりとした間隔を開けて四本、植えられている。どれもかなり太い。すべてが、事前情報どおり見事に咲き誇っている。
見上げれば、冬の冷たい紺色の空を背景に、雪粒みたいな白い花びらが静かに揺れていた。
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ふと、椎名が隆々とした幹に歩み寄る。彼のがっしりとした背中は、まるで幹と一体化してしまいそうでもある。彼は表皮に優しく手を触れ、顎を上げると、
「壮大だなあ」
と感嘆の声を漏らした。
「でしょう?」と教員はどこか誇らしげだ。
ステラ本部は独自の調査網から、魔法事件かもしれない案件を見つけ出し、連絡してくる。だから本人たち――この学校の教員たちは、実際にはさほど問題視していない可能性も充分にある。今回は特に、桜だ。日本人ならみんな好きだろう。
「季節外れの満開だということで地元のテレビ局もいらして、ちょっとしたお祭りみたいな空気でしてね」
「でしょうな」
椎名は振り返らず、ささくれだっていた幹の一部を爪でぺりぺりと剥いでいる。おいおい、と声を出しそうになる。
角度上、教員はまだ気づいていないようだったので、ハルは慌てて気を逸らすためにも訊いた。
36
「いつから、このような状態に?」
「一昨日から、ですね」
「一月二十九日」
「はい。そのころ急に咲き始めて、あっという間に満開になりました」
「たった二日で?」
「ええ。それが、なにか問題が?」
「いえ。普通と違う点を洗い出すのが仕事でして――他におかしな点は? 事故があったとか、不気味な怪談が子供たちの間で囁かれだしたとか」
「特には。まあ、散った花びらがすごいので、掃除には多少苦労しますが」
はは、と教員は笑う。その息は白く空気を染めたが、すぐに霧散した。
「ありがとうございます、もう少しだけ樹を調べてみますのでお仕事に戻られてください」
「はい、お帰りのさいは受付にひと言だけお願いいたします」
と教員は素直に去ってゆく。
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ハルは椎名に歩み寄る。彼は幹の足もとにしゃがみ込んで、土を摘み取っている。
「なにかわかった?」
彼は一口、土を舐めて、すぐにぺっと吐き出してから立ち上がる。
「わからんな。狂い咲いていること以外に目立って変な点はなさそうだし。もう少し像の見当をつけないと」
「像?」
ハルはこの仕事に就いて、まだひと月だ。件数でいうと三件しか魔法事件と相対していない。ようやく慣れてきたつもりだけれど、たまに椎名の言葉についていけないときがある。
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「解除の基本ステップは覚えているか」
「うん」
椎名は指を折って数える。
「一、魔法使いを見つける。
二、魔法使いに、現状について自覚させる。
三、対話・協力しあって、願いの諦め方を見つける」
魔法使いには色々いる。魔法の発現を自覚していない者。魔法には自覚的だが行使は意図的じゃない者。願いの内容を自覚していない者。解除に協力しない者。口では協力的だが、実は魔法を解除したくない者――
人それぞれに応じて対話と説得の仕方はいろいろあるが、なんにせよ魔法使い本人を見つけないことには始まらない。
「そのためには、人物像、魔法使いの意図を推測することが肝要だ」
魔法事件の調査において、一般的な刑事ドラマのような、アリバイや凶器を考察することはあまり意味をなさない。魔法である以上、なんでもありだからだ。テレポートができればアリバイは作れるし、指先で殺せるなら凶器はいらない。
かわりに「動機」、ホワイダニットがとても重要となる。魔法が起こす現象からその意図を推測し、魔法使いの主観を想像し、同調し、内面性を深く推理してゆく。これは、魔法使いが誰なのかを当てる手がかりにもなるし、最終的には解除――願いを読み解いて落ち着けどころを探るためにも役立つ。
ステラにおける捜査とは、いわばFBIにおけるプロファイリングのようなものだ。
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ハルは、大きな樹を見上げる。
「桜が咲く、というのは何の願いなんだろうね」
まさか、桜を見たいから咲いてほしいな~なんてわけじゃないだろう。
その程度の念で魔法が現れていたら世界は滅ぶ。
椎名は自分の襟元に挟まっていた花びらを摘まみとって、ぴんと指先ではじいて捨てた。
「わからんが、訳を知っていそうな情報提供者がいるなら、そいつから聴取するのが手っ取り早いだろう」
「誰? それ」
「そこの少年」
と、彼が顎で校舎の陰を指す。
警戒したようにこちらを見る、ランドセルを背負った少年が、びく、と身体を震わせた。
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「廊下で、先生たちの話を聞いたんだ。ステラの人たちが来るって」
桜からは少し離れた体育館の陰に座り込んで事情を訊くと、少年は言い訳でもするように唇を尖らせた。
いわく、この学校の六年生らしい。スポーティな短髪をかしかしと、かいている。
「めったに見られるもんじゃないから、つい好奇心で」
「僕らを気味悪がらないなんて珍しいね」
「だって、正義の味方でしょう?」
「そのとおり!」
椎名は暢気に笑って、少年の背中をばしばし叩く。
「いやあ感心感心、そんなきみには捜査への協力をぜひさせてあげよう」
少年は、あ、はい、と困惑しつつ笑っている。
ハルは嘆息し、少年の前にしゃがみ込む。
「まあ、こちらとしても子供からの意見を訊けるのはありがたいよ。桜について知っていることを、なんでもいいから教えてもらえるかな?」
少年は真面目な表情で、こくり、と頷く。
「満開満開ってマスコミもきて、クラスのみんなも、先生たちまで浮かれているけどさ、このあたりを掃除する係は生徒のおれたちなんだよ」
「先生は、まるで自分が掃除しているみたいに言っていたけれど?」
「うん、聞いてた。でもまあ、そういう大人も中にはいるさ」
「きみは大人だね」
「全然、おれなんて子供だよ」
「それで?」
「おれたちは実際に見ているから、この桜なんかよりももっと不気味なものを知ってる。雑草だよ」
「雑草?」
「一日で三、四日ぶんかそこら、伸びやがるんだ。おれたちが朝のクラブ練習のときと、夕方の掃除の時間の二回、必死になって抜いていることを先生たちは知らないんだ」
一日二回?
「それはさすがに、おかしいね」
「でしょ。しかもこっちは年明けからずっとだ。桜なんかよりずっと前だよ」
「年明けというと、始業式のころ?」
「そう、一月六日」
どういうことだろう? とハルは椎名のほうを向くと、彼はいない。
いつのまにか桜のそばまで戻って、足元にちょこんと出ていた雑草をつまんで引っこ抜いていた。ハルは深くため息をついた。
41
現場を見たあとは、他の関係者をあたったり、過去や海外の事例と照らし合わせたりして、願いの方向性を探ってゆく。
より現場慣れしている椎名が関係者をあたり、ハルは資料漁りを担当した。
デスクトップPCを使い、オンラインのデータベースで色々検索したり、打ち出したり、付箋や赤ペンでチェックしたりする。地味な作業だ。
そのうえ、今回と似たケースは見当たる気配がなかった。
翌日の夕方。
デスクで画面とにらめっこしているところに、椎名が外出から帰ってきた。
「あ、お疲れー」
顔を起こし、手を振る。差し入れの栄養ドリンクを受け取る。
「おつかれさん。お前、ずっと張り付きっぱなしだろ。散歩でもしてきたら?」
それはありがたい。甘えることにする。
ぼうっとした頭で靴を履いているタイミングで、ちょうど少女からメッセージが届いた。今日は外食にする、とのことだ。椎名を振り返って言った。
「今日、外食してきていい?」
ソファの背もたれから覗いた腕が、オーケーサインを作った。
42
彼女はかたくなに割り勘をさせてくれないので、安値の店になる。今回は、商店街の地下にあるサイゼリヤを彼女が選んだ。
「アングラ感があって、いいのよね」
そりゃ文字通り地下だしな、と思ったけれど、入ってみて意味がわかった。
夕方、まだ高校生はたむろしていなくて、かといって家族連れも晩御飯に来るには早くて、空いている。
しかし地上では見かけた覚えのない露出度の高い服を着たあきらかに夜の職業の女性や、浮浪者然とした老人がぽつぽつと座っている。
壁に掛けられた西洋名画のレプリカと彼女らは真逆なようでいて、どこかマッチしているようにも見える。
その雰囲気が少女はむしろ好きなようで、ハルも嫌いではなかった。不思議と落ち着きさえした。
43
食後のドリンクを飲みながら、訊いた。
「学校は上手くいってる?」
なんのことはない、彼女があの学校の生徒である可能性が頭をよぎったからだ。その調査が、今回の食事の一番の目的だった。
え? と彼女は一瞬固まり、持っていたコーヒーを机に置いた。
「まあそれなりに。どうして?」
「いや、なんとなく。僕が小学生だったころからは十年以上経つから、今の学校はどんな感じなんだろうと思って」
「普通よ。全然、普通。たぶん時代が変わっても本質は変わらないんじゃないかしら」
この近くで、徒歩で通える小学校といえば限られる。
もしもローカルニュースにもなったような桜のある学校なら、今の会話だけでも、「そういえば最近、うちの学校の桜がね」と話題に繋がるはずだ。
が、彼女の答えはそうではなかった。
だからハルも、それ以上は掘り下げなかった。
44
「それよりも、お兄さんの生い立ちを聞かせて」
と彼女は言った。
ハルは、口をつけかけていたメロンソーダのストローを離す。
「なんで僕なんか?」
「お兄さんは今のところ、私の理想の大人だから」
ひっくり返りそうになる。
「冗談だろ」
「冗談じゃないわ」
「冗談じゃない、と言いたいのはこっちだ。僕なんかは見習っちゃいけない大人の典型だよ」
「それは私が判断することよ」
「そりゃそうだけど」
少女はテーブルに肘をつき、他の言葉を待っている様子だった。ハルはストローを加えなおし、一口飲む。
「長くなるよ?」
「いいわ」
どこから話そうか、と左上に視線をやる。
やはりこのあたりからか、というところから始めた。
45
「物心ついたころから、自分の容姿が優れていることに自覚的だった」
「すごい始まりね」
あはは、とハルは笑う。
「理由があってね、うちの執事はいつも言ってくれたんだ。坊ちゃんは本当にかわいいですねって」
「待って。いきなり止めてごめん。執事がいたの?」
「お金持ちだったんだ」
「はっきり自慢するなあ」
「その方が嫌味に聞こえないでしょ?」
「ええ、たしかに」
「執事は普段寡黙な、六十代くらいの痩せた男性でね、神経質そうな感じで、仕事はきっちりするけどお世辞は言わないタイプなんだ。けど僕のことは、かわいいといつも褒めてくれた」
「いい人ね」
ハルは苦笑を返し、メロンソーダをまた一口飲む。
「そのおかげもあって、他のみんなが言うかわいいも、僕に対してだけはお世辞じゃないこともわかった。その中にたまにちょっとの嫉妬が混じっていることも早いうちから気づけた」
「性格はかわいくない子供だけれど」冗談めかして彼女は微笑む。
「まったく」と頷く。「だから小学校に入ると敵もできた。男子からは女みてえとばかにされることもあったよ。けれど、かけっこやドッジボールで僕が活躍すると、彼らともすぐ友達になれた」
「男子ってそんなに単純なの?」
「ああ、言われてみれば。女子なら確かに、こうは上手くいかなかったかもね」
「でも羨ましいかも」
と少女は言う。ハルは目を細め、頷く。
「なんにせよ、僕はあのとき多幸感に満ち溢れていた。ただ幸せなだけじゃなくて、たびたび障害が来るけれどそれをちょっとの心がけで乗り越えられるから、よけいに幸福に感じたのだと思う」
「毎日が楽しかった?」
「ああ。世界は素晴らしい、と本気で思っていたよ。そんな、小学一年生の秋だった」
46
ハルはその日、一時間遅く下校していた。家に着く直前に翌日までの宿題を学校に忘れてきたことに気づき、取りに戻ったからだ。
通学路は閑静な住宅街だった。
繁華街と、大きなショッピングモールとの狭間にあたるそこは、休日や、登下校の時間、会社員の帰宅ラッシュは騒がしいけれど、その合間の時間には、とんと人気がなくなる。
日が沈む直前の夕暮れは、景色を眩しいのか暗いのかわからなくさせていた。
住宅に挟まれた道を歩いていると、背後、少し離れたところを人の足音がついていることに気づいた。
目線だけでちらりと確認すると、まだ秋なのにダウンジャケットを着て、黒いジャージに黒いズボン、黒い靴をはいた男がいた。
顔はマスクで隠れていた。目元はサングラスでよく見えなかった。なんか変な人だな、とまず思った。
一度正面を向いて、ゆっくり歩く。相手の歩調もゆっくりになる。もう一度だけ振り返ると、男の右手に提げられた黒い革のカバンに目がいった。
ファスナーが不自然に開いていて、中にカメラがあることに気づいた。
違和感を覚えつつ、ハルは道の左端から右端へと移動した。すると相手も同じように移動した。
おかしい、と確信した。
足音は、少し近づいていた。
背筋に怖気が走った。視界の少し前方に、塀のない家を見つけた。知らない家だ。でも駆けていき、砂利の敷き詰められたその敷地へ入った。ドアの横の壁にあるインターフォンを鳴らした。ピン、ポーンと間延びした呼び出し音が響く。
47
その間にも男は迫ってきているのが足音でわかる。ダウンジャケットの擦れる音が異様に大きく聞こえる気がした。
チャイムを連打した。けれど音はピン、ポーンと一定のリズムで鳴るだけだ。ハルは目を細め、歯を食いしばった。
――お願い、出て。
両手でドアノブを握りしめ、爪を立てていた。
背後の足音が止まった。
恐る恐る、振り返る。砂利の向こうに男が立っていた。右手の鞄の中で、カメラはこちらを向いている。サングラス越しに目が合った、と思った。
開けて!
と、叫んだつもりだった。でも実際には声が出なかった。男の黒いスニーカーの爪先が微かに動いた。
48
直後。握っていたドアノブがくんと下げられ、ドアに圧された。
「なに」
不機嫌そうな声。それからドアの裏にいるハルを覗いたのは、高校生くらいの青年だった。
「あ、あ」
とハルは呻く。もう一度背後を振り返る。男は消えていた。
青年に連れられ、リビングに入った。
ハルは事情を説明した。彼はレースのカーテンを少しだけ開けて外を確認した。「もういないよ」と彼は言った。
返す言葉が出てこなかった。彼の腕を掴んだまま離さなかった。今いなくても、どこかに潜んでいるかもしれないから、とか、そういう理由じゃなかった。
サングラスとマスクで顔を隠しても、最後に目が合った瞬間に気づいてしまった。
あれは、うちの執事だ。
49
「……怖い、話」
と少女は顔をしかめる。
「その人は結局、なにが目的だったの? 幼児趣味? の、盗撮犯?」
「そうみたい。そのあと電話を借りて、家と警察に電話をして、家宅捜索が入ったときに、動画を収めたディスクが出てきたから」
ハルはあえて軽く言う。
「心底、気味が悪いわね」彼女は自分の二の腕を抱いた。「捕まったのよね?」
「もちろん。ただ、その事件以来僕は、人間ってなんなのか、わからなくなってしまってさ」
「人間」と少女は繰り返す。
「いや、今のは言い方が正確じゃなかったな。人間というものは、誰にとっても理解しきれないと思うんだけど、その当たり前のことが妙に怖くなっちゃったんだ。ああこの人、いい人だなあとか、優しいなあ、かっこいいなあ、と思うことはもちろんあるけど、深くかかわってゆくほどに、心の中の暗がりにいる小学生のころの自分が金切声で警告を発してきて、怖くなるというか――」
ひとりで長く喋りすぎていたことに気づき、ハルは一息ついた。
「ごめん、わかりづらいよね」
「いえ。そりゃ、わかるよとは言えないけれど、本当に恐ろしかったのは理解できる」
「ありがとう」
ハルは笑う。この子は本当にやさしいな、と感心する。
「まあ、普通に生きているぶんには問題ってあまりないんだけどね。最近は、このへんでやめておけば暗がりのその子はギリ叫ばない、みたいなのがわかってきたから気は楽だし」
少女は難しそうな顔をした。気味悪がられるのか、哀れまれるのか、どちらかだろうとハルは思ったけれど、彼女の次の言葉はどちらでもなかった。
「だからお兄さん、恋人を作らないのね」
「恋人? なんでいないってわかるの」
「だって、いたらこんな頻繁に私と会えないでしょう」
「ああ、なるほど」
「最初のころは、きっと家でそういう人が待っているんだと思ったけれど」と彼女は微笑む。
「残念、いるのはおっさんなんだな」
50
大げさに肩をすくめてみせると、ふふ、と彼女は笑う。
「私はどう?」
「ん?」
「女としては見られない?」
思わずハルは、目を丸くする。
が、彼女の意図は、そういうつもりじゃないだろう。たぶん文面どおりに、女性らしさが自分にあるのかの確認だ。
「難しい質問だね。きみは、すごく複雑な人だから」
「どのあたりが?」と彼女は食いついてくる。珍しく、真剣な表情に見えた。
「うーん」
首を唸ってはみたものの、適切な言葉が見つからない。
かといって、軽率に言い表すのも失礼な気がした。
「うまく言えないや」
「そっか」
「ごめんね」
「いえ、いいの。複雑、ね」
「うん、複雑だ」
ふくざつ。その音を、彼女は舌の奥でしっかり味わうように、少し嬉しそうに、目を細めた。
それで納得したのかはわからないが、彼女は話題をハルのことに戻した。
「けれど、それだけ人とかかわるのが苦手な人が、よく魔法使いを捕まえる仕事なんてしてるね」
「まあ、あの事件のおかげで僕にも目標というか、願いができたからね」
51
翌日の昼食を食べ終えたあと、こたつの中でうとうとしていて、次に目覚めたときには椎名の気配が消えていた。
顔の横にあったスマートフォンを見る。
『ちょっと捜査に出てくる』
なんだ、捜査か。
とぼんやり思いかけたところで、違和感に気づく。
いつも椎名は、捜査の行き先をきっちり連絡する。これまで彼の動向を大して気にしていなかったのは、そこがはっきりしていたからだ。
逆に、それを言わない場合がどういうときか。ひと月とちょっとの短い関係だが、知っている。
――やましいことがあるときだ。
そもそも、いくら現場の場数を踏んでいようと、あの男に対人の捜査は向いていない。その尻拭いをさせられるのは、いつも、後輩で見習いのはずの、ハルだった。
52
眉間を抑えて起き上がり、コートを羽織った。
駐車場に車は止まったままだった。いくら運転を嫌うとはいえ、徒歩で行ける圏内なら候補は絞られる。
予想は大方ついていた。今から車で追えば、間に合うかもしれない。
運転席に乗り込む。デュアロジックのスタンバイ音がキュイインと鳴る。
スマートフォンで椎名に電話を掛けてみる。出ない。
ちなみに彼が電話に出る確率は五割を下回る。そんな携帯電話に意味があるか? と呆れる。鍵を刺し、エンジンをかける。直列二気筒が唸る。
53
学校前の路肩にフィアットパンダをつけた。
その時点で既に、校舎から幼い騒ぎ声が聞こえてくる。前回と違って昼間だ、普通に児童たちが授業を受けている。
降りて、門の前に立ち、チャイムを鳴らそうと腕を伸ばしたところで手が止まった。
門の向こう、校舎の入り口に異様なものが目に入ったからだ。
壁にもたれかかり足を放り出すようにして、男性が寝ている。
前回、案内してくれた教員だった。
「え」と声が出る。
真っ先に浮かんだのは教員への心配、そして即座に別の不安へと変わる。
――椎名(あいつ)、なにをした?
椎名が来ているという確信がなければ、魔法事件の被害に遭われたのではないかと駆け寄るところ。だが椎名が来ているのならこれは椎名の仕業だ。
だってこれはどう見ても、彼の力(傍点)のせいなのだから。
54
悩んだすえ、チャイムは鳴らさず、門に足をかけて飛び越え、侵入した。
建造物侵入罪だ。三年以下の懲役又は十万円以下の罰金。やばいことをした同僚のために、自分も罪を犯す。なんでこんなことに。
頼む、誰にも見つからないでくれ、と祈りながら、しかし怪しまれないように背筋を伸ばして平然とした顔を作り、速足で歩いた。グラウンドの方向から声は聞こえない。よかった、体育をしている気配はない。
と、桜の木が視界に入ったところで、目を疑った。
椎名が、のこぎりで木を切っていた。
いや、正確には削いでいた。
幹に対して直角じゃなく樹皮だけを取るように、上から斜めに刃を入れて、ぎいこぎいこと滑らせている。のこぎりなんてうちになかったろ、と思ったら足元にホームセンターの白い袋が落ちている。反射的に大きな声を出していた。
「なにしてるの!」
55
椎名はちらりとハルを見ると、刃を止めた。
皮を切り終えたのこぎりを抜き、地面に放る。ぎざぎざの刃がびよよんと揺れた。
「なにって、捜査だよ」
「桜の皮を剥ぐのが?」
「ああ」
「まったく意味がわからない。学校側の許可はとったんだろうね」
「善処した」
「取れなかったんだね?」
「ううむ、まだな」
「まだってなんだ。事後承諾してくれるわけがないだろう」
56
ステラは正式な書面がない限り、他人の所有地には入れないし、木を切ることももちろんできない。
それでも、まっとうにお願いすれば普通はOKしてくれるのだが、椎名のことだ、交渉が雑で、失敗したのだろう。
器物損壊罪。三年以下の懲役または三十万円以下の罰金もしくは科料、と頭に浮かぶ。
57
「許可を貰えなかったから、忍び込むためにあの教員を眠らせたのかい?」
「なあに大丈夫、勝手に自分で眠ってしまったと思うさ。別に睡眠薬や麻酔を打ったわけじゃないし」
ハルは背後を確認する。まだ、人は来ない。
「百歩譲っても、なんでこんな真っ昼間に忍び込むんだ」
いや、もはや彼の場合、忍んでもいないのだけど。
58
「魔法使い本人のいる傍でこそ、魔法の力は顕著になる。ならやっぱり、児童の多いこの時間に剥いでおかないといけない」
眉間を抑える。
「だから、なんで剥ぐのさ」
「そんなに怒るなよ。なにも環状剥皮したわけじゃない。じきに再生するさ」
「再生って」
と、椎名のそばの痛ましい桜に再び視線を向ける。
瞬間、息を呑んだ。
「あれ? 皮が――」
再生、してゆく。
59
それは動画を早回しで見ているみたいだった。
まず樹液がじわじわと溢れ、次にそれが乾き、寒さに応えるように固まり、傷口を補修する。樹木の再生としてはあまりに早すぎる。虫が這うような速度、という表現があるが、まさに生き物を見ているような速度だった。
「昨日も軽く指で皮を剥いだんだよ。そのときから、もしやと思っていた。だが今日の方が、やっぱり再生が早いな」
「この学校の子の中に魔法使いがいるってこと?」
こくり、と椎名は頷く。
「足元を見てみな。一昨日に俺が雑草を抜いたとこ、もう生えてる」
視線を落とす。ほんとだ。それも、ずいぶんと長く、ひざ下くらいまで伸びている。
「あの少年に頼んでおいたんだ、あえて放置してみておいてくれって」
「いつのまに?」
「ラインで」
「ライン!」
「このまえ別れるときに交換したんだ。だめかよ?」
そんな軽率に、と言いかけて「いや」と首を振る。たしかに、公務用のデバイスを公務、つまりは聴取や囮捜査などのために使うぶんには自由とされている。それに、そもそも少女と友だちなハルが言えた立場じゃない。
60
「見えてきたな」
と椎名がこぼす。同時に風が吹き、粉雪のように白い花びらが舞った。視線を頭上へ向ける。昨は満開だった桜が、もうずいぶんと散り始めている。
――見えてきた?
犯人が?
それとも願いが、だろうか?
しかし尋ねるよりも早く、校舎のほうから「何をしているんですかあなたたち!」と教員らしき女性の声が飛んできた。
「やっべ。じゃ、あとは適当に説明しといてくれ」
椎名は言うやいなや、正門のほうへ駆け出す。
「え、僕!?」
動揺している間にハルは捕まった。
いちおう捜査の一環であることを説明したが「許可を取ってください!」と怒られ、もっともすぎるので平身低頭謝罪した。まじであいつシメる、と椎名を呪った。
61
前回会ったときに、少女の誕生日が二日後にあることを知った。
「なら次は、少しだけ贅沢をしようか」
とハルは提案した。
「いいよ、そんな。いつもどおりで」
「別になにも、高いレストランに行こうって話じゃないよ。焼肉とか、回転寿司とか」
「サイゼリヤをロイヤルホストにするとか?」
「そうそう」
「でも近くにロイホないよ」
「そうだねえ。あ、あれは?」
「なに」
「スターバックス。誕生日くらい、奢っても許されるよね?」
少女は微笑み、ありがとう、と言った。
62
日取りもその場で決めた。七日後、彼女の誕生日から見ると五日後だ。
だからそれまで、ラインでメッセージのやりとりをすることはなかった。
別に、話すべき内容なんてない。わざわざこちらから送るのも変だろう。そのうえで、直接会えば話すことがいくらでも出てくる。
そういう適度な距離間でいられることが、どこか誇らしかった。
でも、それが間違いだった。
63
当日。待ち合わせ時刻はいつもどおり、彼女が学校から家に一度帰って、しばらく経った十五時半と決まっていた。
スターバックスはうちから徒歩圏内で、彼女の家からも十分ほどだと言っていた。
十五時二十分に、店に入った。
まだ彼女はいなかった。スマートフォンにも連絡はない。
その時点で、珍しいな、とは思った。彼女はいつも、どんな店でも早めに入って、ぼうっと待つタイプなのだ。待たせるのが申し訳ない、と言うと、「待ち時間が好きなの。そういうことを気にする仲でもないでしょう?」と返されて、なんだか人として負けた気がして、従うことにした。
十五時三十二分。
遅刻。今までにないことだ。そこでやっと、かれこれ一週間も連絡を取っていないのだと気づいた。心配になり、スマートフォンを取り出したところで、背もたれの上から声がした。
「スターバックスは企業名に星が入っているのがいいよな」
声質ですぐに分かった。顔を上げると、彼の鋭い顎が見える。
「けど知ってるか? 本当は星の雄じゃなくて、スターバックっていう人名が由来なんだよ。これを聞いたとき俺は悲しかったね、勝手にシンパシー感じて損したって」
「椎名。なんでここに」
64
椎名は背もたれに両腕を預け、体重をかけるようにしていた。その身体を起こし、ハルとテーブルを挟んで向かいの席に座る。
「ずるいじゃないか、お前だけ」
「今日は友だちとの、特別な日なんだよ。きみのぶんもサプライズで買って帰るつもりだったよ」
「あの少女なら、待っていても来ないぞ」
ハルは思わず、眉間にしわを寄せる。
「どういうこと?」
「お前が頻繁に会っていた少女は、桜の学校の児童だった」
「僕を尾行したの?」
「勘違いすんな。あの学校の児童に、五日連続で休んでいる子がいた。そこから逆向きに辿ると、たまたまお前と会っている子だった。これから現場に行かなきゃならんが、通り道だからお前を拾っていくことにした」
と、彼が言った直後にスマートフォンが震えた。彼女からのラインだった。タップして開く。
『遅れてごめん。本当に申し訳ないけれど、相談したいことがあるの。うちまで来てほしい』
65
ハルは反射的に立ち上がる。素早く、『すぐ行く』とだけ返した。住所を表すリンクが貼ってあったが、詳細は見なくていい。
「急ごう。案内をお願い」
「ああ」
椎名も立ち、先を歩く。ハルはジュースを手に取り、暖房でぬくもり過ぎていた身体を起こすために流し込んで氷を噛んだ。空の容器をごみ箱に放り、店を出る。
店員のありがとうございましたーの声を、閉まるドアが遮る。
66
日が西に傾き始めたアスファルトの上を、ハルの影がコンパスの針みたいに前方へ伸びて、椎名にかかっていた。
椎名が長い脚ですたすたと歩きながら、振り返らずに言った。
「あの子と今回の件の関連、可能性くらいは頭をよぎっただろう。確認しなかったのか?」
「一度だけ、しかけたよ。でも関係なさそうな反応だった。まさか数ある学校の、数いる児童の中からあの子だとは、そのときは思わなかった」
「まあ、そりゃそうか」
「彼女には、どんな願いがあったの?」
「ざっくりと見当はついているが、自分で考えてみな」
「僕が?」
「お前、見習いだってこと忘れんなよ。これはお前の実地訓練も兼ねている」
「そんな悠長なことを言っている余裕があるの」
「むしろ今回やらなくてどうする。お前はせっかく、事件前から本人と長く話せている。こんな事例は、今後二度とないだろう」
そりゃ、そうかもしれないけれど。
「とはいえ、僕は彼女の深いところについてはほとんど知らない」
「ある程度の追加情報をやるよ」
「調べられたの? あんな風に逃げておいて」
「ふん。生徒名簿くらい、教員を頼らなくても手に入る」
むきになったように椎名は言う。
どうせあの男子小学生に頼んだんだろうな、と見当はついたが指摘しないでおいた。
「本名は明石あおい。両親は共働きで多忙。彼女にはご飯を作ってくれる兄や姉も、作って食べさせなければならない弟や妹もいない」
あおい。BLUEというライン名から想像はできたが、改めて聞くと新鮮だった。
67
「だから、あんなに頻繁に夕飯を外食で済ませていたんだね」
「そんなこと、お前は内心ではとっくに気づいていたはずだ」
「え?」
「小学生が、夕御飯を定期的にひとりで外食している時点で、家庭に特殊な事情があることくらいは容易に想像がつくだろう」
――確かに。
気づかなかった、わけじゃない。
「彼女が話題にしたがっていなかったから、話さないでいようと考えたんだ」
「まあ、それも優しさではあるかもな」
と椎名に言われてから、いや、と思い直す。
ひょっとすると、これも言い訳かもしれない。
彼女は珍しく話の合う相手だった。深くを知りすぎると、見たくない部分が表れるかもしれないと、無意識に警戒したのではないか?
住宅街を歩きながら路地裏を見ると、暗い顔をした六歳の少年が見つめている気がした。もちろん、幻覚だ。
「だが食事が孤独だったことは問題の後押しであって、問題の本質じゃない。大事なのは、引っ越しの多い家庭ということだ。いわゆる転勤族だな。この町には去年の三月に越してきて借家に住んでいるが、すでに次の三月には引っ越しの予定がある。そして、以前も聞いたとおり、あの子の始業式は一月六日だった」
「始業式? それが関係あるの」
「それを考えるのが、俺たちの――お前の仕事だ」
もったいぶられているような答えにハルは眉根を寄せる。が、時間がないから考えるしかない。
転勤と引っ越し。
学校の開始日。
桜が咲く魔法。
68
少女の自宅は一般的な二階建ての一軒家に見えた。
チャイムを押すと、出たのは母親らしき女性の声だった。インターフォン越しに、魔法解除班ステラであることを説明する。
女性はドアを開けてはくれたが、眉間に皺を寄せていた。四十歳前後だろうか、化粧はしておらず、顔に疲労が滲んでいた。
ハルが手帳を掲げ、手早く話す。
「娘さんが、魔法を発症されている可能性があります。お話をさせていただけますか」
「魔法?」
と女性は不安げな声を出す。
「あの子は、魔法にかけられたんですか」
かけられた? かけた、ではなく?
ええ、と椎名が割って入る。
「でも大丈夫、今のうちに対処すれば危険はありませんよ」
彼は安心させるために、あえて軽い口調で言っているように見えた。
「本当ですか。病院はいろんなところを回ったり電話もしたんですが、原因は不明だと」
女性が早口で、目を血走らせて椎名に縋りついてくる。
「今、このお宅にはお嬢さんとあなただけですか?」
「はい。主人は下垂体に詳しいというお医者様と話をしてくると。呼び戻しましょうか?」
「いえ、結構。お嬢さんは二階に?」
「ええ」
69
「ありがとうございます。それだけ伺えれば充分です。こちらを見て下さい」
椎名はポケットから五円玉を出して、女性の前にかざす。
「ひつじが一」
「え?」
「二、三」
数えると同時に、女性が膝を折って前のめりに倒れる。身体を椎名が支えて、床にそっと寝かせる。
ハルは思わず訊く。
「眠らせる必要、ある? あの子を説得するだけだよね」
「どうせデリケートな話になるから、聞かれない方がいい。それと、最悪の可能性も踏まえてだ」
最悪。
魔法使いを相手にするこの仕事においてその言葉は、ひとつの意味しか表さない。
「まさか、彼女を殺すなんてこと」
「もちろん、そう滅多には殺さない。ここは法治大国日本だぞ」
ほっと息を吐く。椎名が苦笑する。
70
「これまでは教える機会がなかったからな。ステラから魔法使いへの殺傷効果のある行為が許される状況は限られる。大事なことだから、今日覚えておけ」
椎名は指を一本ずつ立て、口早に説明する。
一、刑法上の「正当防衛」や「緊急避難」に該当するケース。
二、「死刑または無期もしくは三年以上の懲役もしくは禁錮」にあたる凶悪な罪を現に犯したか既に犯したと疑うに足りる充分な理由のある者が逃げるか抵抗した場合等でほかに手段がないとき。
三、確保する際に抵抗や逃亡等した場合等でほかに手段がないとき。
「要するに、よほどの凶悪犯が、しかも意図的に魔法を操って騒動を起こさないかぎり、俺たちは対話で事件を解決する。つーか、法律上そうするしかないというのが正しい」
神妙に頷いた。椎名が「行くぞ」と靴を脱いで、母親を避けて家に上がる。
ハルは玄関の鍵をかけようとサムターンを摘む。と、椎名に言われる。
「あ、そこは開けたままでいいぞ」
「え、どうして」
「念のためだよ」
念のため?
意味はわからなかったが、時間がないので椎名に続いて、そっと床を踏んだ。
71
二階への階段を上がる。不気味なくらい静かだった。
椎名いわく借家だという家の木材が、きい、きいと踏むたびに鳴った。
廊下を突き当たったドアの前で足を止める。「Please knock」のプレートが下がっている。こんこん、と椎名が指で叩く。
「はい」
ハルは唾を飲む。彼女の声か? それにしては少し低く感じた。
椎名はドアに口を近づける。
「魔法解除班ステラだ。話をしにきた」
「魔法?」
「うちのハルからざっくりとした話は聞いたろう、きみの問題を解決するための部隊だ。きみは今、魔法を発現している」
「お兄さんも一緒にいるの?」
椎名がこちらを振り返り、顎で促す。
ハルは椎名の身体を少し押しのけ、ドアのほうへ顔を突き出して声を張る。
72
「待たせてごめん。それと、気づいてあげられなくてごめん」
心から、そう言った。
「入ってもいいかな」
「来てくれて、ありがとう。どうぞ」
ドアノブを引く。微かに、柔軟剤のような甘い香りが漏れてきた。
六畳ほどの小じんまりとした部屋だった。正面に窓があり、沈みかけの西日が照りつけている。逆光に目を細める。窓際の壁には太陽に背を向ける形で本棚、右手は、小学生らしい勉強机。左手の壁に出窓があり、その手前にシングルベッド。その上に三角座りをして、布団をかけた少女がいた。
「本当に、ステラだったのね」
と、彼女は眉をハの字にして、力なく微笑んでいた。
その姿を見て、固まる。知っている少女ではなかった。いや、顔の作りの雰囲気と、表情から、間違いなく彼女だと確信できる。
73
でも、どう見ても小学生じゃない。
二十歳前後の、大人の顔つきと体格をしていた。
服は、母親のパジャマを着ているのだろう、子供向けのデザインとは違ったし、サイズも少しオーバーに見える。
「その身体――」
言葉が出てこなかった。
「あらら。可憐になっちまって」
と椎名が後ろからハルの身体を押しのけて、一歩前に出る。
少女が警戒するように、布団を胸元に引き寄せた。
「お母さんは、どうしたの?」
「ちょっと眠ってもらっただけだよ」
少女の顔がいっそう険しくなる。
「おっと、そんな危ない方法じゃない。魔法だよ」
「魔法?」
「俺は魔法使いだ。〈スリープ〉。眠らせる魔法。三十分しかもたないけどな」
「魔法って。意図的に使ったら、犯罪じゃないの?」
「ちょっと事情があってな。大人の事情ってやつだ」
椎名はこほん、と咳ばらいをして声音を低くした。
74
「一、あなたは魔法を発現している」
「え?」
「二、解除に協力しなければ罪に問われる場合がある。
三、意図的に魔法を行使すれば罪に問われる場合がある。
四、すべての偽装は罪を重くする場合がある」
訝しむ少女に、椎名は声を軽いものに戻して笑う。
「変人を見るような目はよしてくれ、必要な工程なんだよ」
「どういうこと?」
「明治四十二年制定の刑法典、第三十八条にはこうある。『罪を犯す意思がない行為は罰しない』――原則、魔法使いが騒動を起こしても、当人が魔法を使っていることを自覚し、意図しないかぎり罪には問えないってことだ。だから俺たちは、魔法使いを見つけたら定型文としてこの警告を発しなければならない。名をそのまま、ステラ警告という」
少女は、呑み込むように顎を引いた。
「この異常な身体は、私自身のせいってこと?」
「そう。きみは意図的ではないだろうが、きみ自身の願いによる魔法だ。その願いとは何なのか、どうすれば諦め(傍点)られるのか、それを一緒に探るのが我々の仕事だ。協力してくれるな?」
「もちろん、する」
彼女は即答する。
「でも、願いって? 私にはわからない」
魔法使いが、自身の力も願いも把握していないことはよくある。それを一緒に見つけるのが、ステラの仕事だ。
75
「そうだな、本来はじっくりと質問を重ねて心の底に迫ってゆくものなんだが――今回は特殊なケースだ、最初に確かめておきたいことがある。この五円玉を見てくれるか? 大丈夫、危なくはないから」
彼は五円玉を掲げる。
椎名? とハルは声をかけそうになる。対話しなければいけないのに、眠らせてしまったらだめなんじゃないか?
しかし気にした様子もなく椎名は唱える。
「ひつじが一、二、三」
直後、少女は意識を失ったようにかくん、と首を落とした。
が、また数秒すると、はっと顔を起こす。
「え? なにを、したの」
理解できないのは、むしろハルのほうだった。
――眠らなかった? 椎名の魔法で。
76
椎名が笑う。
「やはり思ったとおりだ。俺の魔法が効かない。いや、すぐに効果時間が切れると言う方が正しいか」
「どういうこと?」椎名は思わず口を挟む。
と同時に、喉に違和感を覚えた。
酷く渇いている。
そういえば、全身にじんわりとした倦怠感がある。手に違和感を覚え、ぐ、ぱ、と指を閉じて開ける。妙な筋肉の固さを感じた。
「椎名、これ――」
彼は振り返り、微笑んだ。
77
「これが彼女の魔法の正体だ」
「魔法」
「俺が三十分間寝かせても、それは彼女の肉体において一瞬だから起きてしまう。三か月ほども早く桜を咲かせたり、剥いだ皮もあっという間に再生したり、雑草を何倍もの速度で伸ばしたりするのもまったく同じ理屈だろう」
彼の頭からはらりと、髪束が頬骨にかかるのを見た。だがその色に目を向く。
いつのまにか、白髪に変わっている。
「椎名、髪が」
「ああ」
と彼は笑い、乾いた咳払いをした。
「彼女の魔法は、老化だ」
78
老化。
その不気味な響きを、ハルは脳内で反芻していた。椎名が続ける。
「おそらく植物だけじゃない。学校関係者、彼女の周囲の人間も影響を受けていたはずだ」
「人間も?」
「ああ。ようは速度の問題だ。そのころは、まだしも気づかれない速度だったんだろう。だが彼女の魔法が強まった今、こうして一緒にいる俺たちは違う」
ハルは、すぐそばの姿見に目をやる。
たしかに今の自分は、二十四の顔には見えなくなりつつある。
三十代の、疲れた男だ。
「脱水や飢えで死なないのがせめてもの救いだな。単純に時間を進める効果じゃないってことだ。この差もおそらく、願いの本質に関係しているんだろうが――」
ハルは気づく。
「もし周囲の人間に影響を及ぼしているというのなら、一階で寝ているお母さんも?」
「ああ、見た目よりももっと若かったのかもしれないな。それどころか、俺の魔法も三十分とかからずに切れてしまうだろう。とにかく文字通り、時間がない。急いだほうがいい」
本来はじっくりと質問を重ねて心の底に迫ってゆくものなんだが――今回は特殊なケースだ。さっき椎名の言った言葉が脳内で再生される。
「急ぐったって」
「お前を連れてきてよかったよ」と肩に手を置かれた。
79
「ここに来る前にも言ったろう? 今回はお前の実践試験みたいなものだ。お前が決着をつけろ」
「僕が?」
「なあに、願いを聞き出して、諦めさせるだけ。簡単さ」
「簡単なわけないだろう」
「そうか? だが、そうだとしても俺はもう休むぜ。疲れたからな」
と言って椎名はその場にあぐらをかいて座り込む。
「なにをふざけて。ざっくりとだが見当はついている、とか言ってただろう。せめてそれを教えてよ――」
と椎名を見下ろして気づく。彼の顔はもう五十、いや六十歳ほどに老け込んでいる。瞼をつぶったその表情は、意識を失っていた。急速な老化に肉体が耐えかねたのだ。
目を瞠る。慌ててしゃがみ、彼の鼻の下に手を添え、呼吸を確かめる。
――よかった。まだ死んじゃいない。
だが、どうやら僕ひとりでやるしかないらしい。
80
「大丈夫、なの?」
少女が心配そうにつぶやく。
魔法事件は、普通の事件じゃない。魔法使いを犯人とは呼ばない。彼女は、あくまで被害者だからだ。願いを自覚せず、魔法を意図せず発現した被害者。
だから、安心させるための声をかける。
「ああ、大丈夫だ」
「でも、あなたも、年齢が」
そう、どんどん老け込んでいく。
仕方ない。まだ慣れていないが、出し惜しみはできそうにない。
ハルは再び立ち上がり、右手を彼女へ向けた。乾いた中指と親指を引っ付ける。
指先に力を込め、ぱちん、と弾く。
瞬間、数年分の老いが吹き飛び、若さが戻る。
身体中の疲労が浄化される。
え? と少女が目を丸くする。
「〈ダウト〉。指を鳴らすことで、六十秒以内に受けた魔法の効果を消す。これを続けているかぎり、僕にきみの魔法は効かない」
人を信用できないハルは、疑う魔法を手に入れた。
81
ぱちん、と指を弾けばハルだけは老化を免れる。
だが、こんなのは応急処置にもなっていないと、自分でもわかっていた。なにせハル以外にかかった魔法は消せないのだ。
うなだれている椎名に目をやる。あんなに黒かった髪は、もう白の割合のほうが多くなりつつあった。部屋から担ぎだして少女から遠ざけるか? いや、付け焼刃にもならないだろう。それよりは覚悟を決めて、彼女に向き直る。
「お兄さんも、魔法を使えたのね」
「ああ」
「どうして教えてくれなかったの?」
「普通は、引かれるから。一般的に魔法使いといえば、きみも言ったとおり犯罪者だしね」
「でも、犯罪者じゃない魔法使いもいる?」
「確かに、存在はする。最初に説明したステラ警告の条項どおりだよ」
82
魔法を自覚したうえで解除に協力しなければ罪に問われ、意図的に魔法を行使すれば罪に問われる。
「逆に言えば、解除に協力的で、かつ魔法を使おうともしなければ罪には問えない。『自身の魔法を解きたいと思ってはいる』『けれど願いを叶えられないし、諦めることもできない』そういう魔法使いたちは、逮捕とは違うかたちの収容施設に入れられるんだ。けれど施設にだって定員はあるから、施設内で魔法の制御を習得して生活態度もいい模範生が、ある程度の自由を認められ、ステラの隊員として働く」
「なら、私もそうなれる?」
「魔法を解きたくないの?」
少女は「それは――」と視線を自分の胸に落としたきり、黙る。
もし彼女が魔法を解きたくないと思う要素が少しでもあるなら、厄介ではある。
だが同時に、チャンスでもある。それは、魔法の効果に思い当たる節があるということで、つまり願いを探し当てるヒントになるからだ。
83
ハルは一分が経つ前にもう一度指を弾く。それから、ふう、とため息をつく。
「まあどのみち、おすすめはしないよ。ステラの隊員はステラが解散するとき、全員死刑になるからね」
「え?」
「繰り返すけれど、意図的に魔法を行使すれば罪に問われる。僕たちはこれまでに何度も、意図的に魔法を行使している」
椎名の〈スリープ〉も、ハルの〈ダウト〉も。
「さっき椎名は、犯罪者じゃないとは言わなかったろう? これが彼の言う、大人の事情だよ。僕たちはあくまで、“犯罪者側”の魔法使いだ」
「でもそれは、事件を解決するための――」
「そう、必要な行使だ。だが、かといって減刑はない。自由を認められ、なんてのは体のいい方便でね。厄介な魔法使いの相手を厄介な魔法使いにさせて、時が来たら一掃しようというのが、お上の考えさ」
ハルは、あえて軽く肩をすくめる。
シェアハウスだって名ばかりで、本質的には監視カメラつきの軟禁場所なのだ。
でも、悲観的にばかりなっていても仕方がない。
84
「なら、どうしてそんな役を」
「唯一の例外を探しているからだ」
「例外」
「ステラの活動は施設内と違っていろんな経験をできる。その中で、もしも自分の魔法が消える――願いを諦めるか、叶えられることができたならば、僕たちは無罪放免、元の生活に戻っていいと約束されている」
そう、ステラになろうが結局やっていることはこの少女と同じだ。願いの終着点を探している。その希望だけを胸に、生きている。
「あなたの願いは、わかっているの?」
「人間を愛すること」
それを願って、でもできないから、疑う魔法を手に入れた。
少女は目を瞠り、唇を引き結んだ。
「さ、僕の話はおしまいだ。うちの同僚が老衰してしまうからね」
ハルは、できるだけ優しく見えるよう努めて微笑む。
「きみはまだ引き返せる。願いの終着点を見つけよう?」
85
少女はベッドの上に変わらず三角座りをしていて、ハルはそこから三歩離れた場所に立っていた。六十秒を部屋の壁掛け時計で数えて、ぱちんと指を鳴らす。
願いを特定し、終着点を見つける――いまだ願いさえわからない。
だが、彼女の中に魔法を望む気持ちがあることはわかった。それは遡れば、ふたりで会っていたときから感じていた違和感でもあった。
「きみは一度、魔法をどうやったら使えるようになるのか、と僕に訊いたことがあったね」
「ええ」
「あれはやっぱり、魔法を望んでいたからだったんだろう?」
「どうだろう。わからない」
わからない?
いや、無自覚だっただけだ。
なぜなら、あの時点で彼女は既に魔法を発現していた。
彼女の発言があった翌日に、ハルたちは学校に行った。だが学校で実際に桜が咲いたのは、ハルたちが行く二日前、つまり彼女の発言の一日前だ。
では彼女は、厳密にはいつ、魔法を発現したのか。
言い換えるなら、彼女はなにをきっかけに願いを持ったのか?
86
「きみと同じ学校の子が言っていた。雑草が、一日で三、四日分は伸びる。そしてきみの学校の始業式は、一月六日だった」
「うん」
「仮にそのときから時間が四倍速で進みはじめたのだとしたら、二十九日までの二十三日間で、九十二日間の老化が、あの学校では進んだことになる」
桜の開花には四百度の法則、あるいは六百度の法則というものがある。二月一日からの最高気温を足していき、一定の数値に達すれば咲く、という指標。どの程度の信憑性があるかは知らないが――
「少なくともあの桜は日数の上では、四月を迎えていた。そう考えれば、桜が咲く時期としてはちょうどいいように思える――始業式に、なにかあったの?」
少女は黙った。
ハルはまた、ぱちんと鳴らす。
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「質問を変えよう。学校は上手くいってる? と僕が訊いたとき、きみは曖昧に答えたね」
――まあそれなりに。
「その理由を、今改めて、聞かせてもらうことはできるかな」
少女は膝の上に乗せた布団をぎゅっと握り、なにかを堪えるように、顎を引いた。でも、視線は強く、ハルから逸らさなかった。
そのしぐさは、小学生の女の子にしては大人びていて、二十歳の身体を持つ女性にしては幼かった。
「……引っ越し」
と、彼女は絞り出すように言った。
「うちはお父さんは転勤ばかりで。ようやくこの土地に慣れてきたのに、また引っ越さなきゃいけないの」
「それが、嫌だった?」
「うん」
たしかにそれは、叶えようのない願いに思える。けれど――
「動機と結果が結びつかない」
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「え?」
「その願いで、なぜ老化の魔法になるか。そこが繋がっていない。だから、きっとまだ、願いの本質にたどり着けていない」
「本質」
「そう。引っ越したくないという願いは表面的なものに過ぎない」
魔法が死人を醜い姿でよみがえらせたり、逆に魔法使い本人の命を脅かしたりするのは、亡くなった人に会いたいという願いからだ。本人の望んだ効果ではないにしても、これらは動機と結果が、文脈としては繋がっている。
だが彼女の魔法は、まだそうなっていない。老けたところで、引っ越しを避けることにはならないだろう。
「老化という効果を望む、もっと本質的な願い。それが、きみの中にはあるはずだ」
少女が下唇を噛み、ハルから視線を逸らし、うつむいた。
89
そのまま、沈黙が滞った。
静寂の中、壁掛け時計がかち、かちと時を刻んでいる。また一分が経つ。ハルは焦りを込めるように中指と親指に力を乗せ、ぱちん、と弾く。
と同時に、少女が、かろうじて聞こえる微かな声で呟いた。
「そうか」
彼女はうつむいたまま、膨らんだ自分の胸を見つめていた。
「私は、もしかして――」
と、そのときだった。
がちゃり、と一階から音がした。
90
玄関の開く音だとわかった。
母親が起きたのか? いや、だとしたらまず階段を上ってくるはずだ。
「お父さん?」
ハルは少女に訊く。しかし、
「ううん。夜遅くまで帰ってこない」
と少女も困惑した様子で答えた。
ハルは眉間を狭める。
――なら、誰が?
幼少期の記憶がいやでも思い出され、警戒で肌が粟立つ。
きい、と侵入者が床に上がる音がした。
階段を、きい、きい、と慎重そうな足取りで上ってくる。ハルはドアの前に移動し、身構えた。
やがて、こんこん、とノックが鳴る。そしてドアの向こうから、
「あおい?」
と、幼い少年の声がした。
耳覚えのある声だった。
91
いつのまにか日が沈もうとしていた。
室内の窓から射す西日が、四人目の来訪者の影を長く伸ばしていた。
「なぜ、きみが」
とハルは少年に言った。
桜の話を教えてくれた、短髪の小学生だった。
「え、あのときのお兄さん? どうしたの、その顔」
老化に驚いている。今のハルは十歳ほどは老けている。ぱちん、と指を鳴らす。
「ああ、ちょっと色々あってね。それよりどうしてここが?」
「さっき、あのおじさんに連絡をもらったんだ。あおいが魔法を発現したって」
あのおじさんというのは、椎名のことだろう。直後、少年は脇に転がっている老夫を一瞥だけして驚いた様子を見せた。まさにそいつが椎名だとは気づいていないのだろう。なんて不憫な。だが今はそれどころではない。
「そういえば椎名は、ラインをきみと交換し合ったと言っていたね。さっきというのは、ここを訪ねて来る前?」
「うん、つい何十分か前だよ」
92
だが、どうして部外者の彼をわざわざ――?
そう思っていると、
「あきらくん」
と少女の声がベッドの方からした。
あきら? ハルは思わず彼女を振り返る。
「知り合い、なの?」
「同じクラスだよ」
「あおい、なのか?」
驚いたように口を開けたのは、あきらと呼ばれた少年だった。彼はドアの前から、ハルの少し前まで歩み出て、少女を見つめる。
「うそだろ、その身体」
「見ないで」
少女は布団を鼻先まで引き上げる。だが子供用の布団からは、つま先が覗く。
少年は神秘的な光景でも前にしたかのように手を身体の前にかざし、息を吐いてから、行き場のない手をまた下ろした。
93
「その、痛くはないのか?」
「うん」
「魔法、なんだよな」
「うん」
「治し方がわからないのか」
「うん」
よく知り合っているふたりの会話なのだと、不思議とハルには察せた。
少女の表情は、ハルと話していたときのものとは違う。いや、もちろん二十歳前後の見た目になっている彼女は顔からして違うのだが、そういうところではない。
表情に、温度があった。
大人びた彼女ではなく、そこには等身大の彼女がある気がした――
そうしてふと、気づく。
椎名は時間ごとに老いているのに、彼女は二十歳前後の容姿から変わらない。
94
一方、少年の成長速度は、ハルたちよりも遥かに早く見える。部屋に入ったときには百五十センチもないくらいだった身長が、みるみる伸び、今や百七十センチに届こうかという勢いだった。ゆるめのパーカーと裾の余っていたジーンズが、今ではきつそうで、コメディみたいに不格好だ。
少年自身がそのことに気づいて、ふっと自嘲的に笑った。
「そうか。おれも、あおいの魔法にかかってるんだな。きちきちじゃん、ダセエ」
「ごめん」
「いや、でも嬉しいよ。おれ、こんなにでかくなれるんだな」
「え?」
「六年になってから周りに抜かされてばっかでさ、あのちびのヒロトにまでだぜ? 不安だったんだよ。このまま伸びないんじゃないかって。でも、安心した」
少女は目を丸くし、数秒固まっていたが、こらえきれなくなった様子で、ふっと頬を緩めた。
95
その様子を見て、ハルはふと、いつだったかの彼女の言葉を思い出した。
――女としては見られない?
ああ、と思う。
――きっと彼女は、この少年を好いているんだな。
指をぱちん、と鳴らす。ハルは言うことに決めた。
「あおいちゃん」
と、初めて彼女の名を呼ぶ。
96
少女と少年が同時に、ハルを見た。
「きみが引っ越したくないと思ったのは、彼と別れたくなかったからだね?」
――こんなこと、本当は僕の口から言いたくない。
けれど、時間がない。
それに、本当に大事な言葉は、彼女自身に言ってもらうことになるから、きっと大丈夫だ。
「そのうえで、引っ越しさえきみの本当の願いではない。もっと本質的な願いに、きみはもう気づいているはずだ。あとはそれを認めて、自分の気持ちにけじめをつけるんだ」
彼女と少年が、互いに目を合わせた。
僕たちの仕事は、人の願いに決着をつけること――ハルは頭の中で反芻し、苦笑する。
なに格好をつけているんだろう。
決着をつけるのはいつだって、本人たちだ。
魔法をかけるのも、かけられた魔法の中で夢を見るのも、その夢から目覚めるのも、すべて彼女たち。彼女たちこそが主人公だ。
97
「あきらくん」
少女が薄い唇を湿らせて、開く。
「私――」
「待って」
と少年が突然遮った。
ハルは目を丸くし、彼の横顔を、少し後ろから見つめる。
少女も固まっていた。
少年は彼女に一歩、歩み寄る。互いに腕を伸ばせば届く距離まで。そのうえで、彼はまっすぐに立って、言った。
「先に、おれに言わせて」
「え?」
少年は強い目をしていた。
98
「引っ越しても、必ず連絡を取ろう。ラインを交換してさ。きみがどこに行っても、たまに会いに行くよ。もし遠くても、四月からは中学生だ、交通費は新聞配達でもなんでもして、稼ぐ。そんで、もっと大人になって、ちゃんと成人したら、必ずおれが迎えに行くから」
少年がひとつひとつ区切るように、でも途切れさせず続ける言葉に、少女は目を丸くしていた。窓から照り付ける夕日が瞳に映り、まるで炎が揺らいでいるようだった。
少年がはっきりとした声で告げる。
「そのときは、きみと、もっと一緒にいたい」
少女は、きらめく瞳を一度、瞬かせてから、眩しがるみたいに目を細めた。それから唇の端を自然に上げて、おそらくはいちばん素直な笑顔で頷いた。
「うん」
日が沈む。弾け飛ぶ火の粉のような光の粒がふたりの間を舞っていた。その残光を目に焼き付けながら、ハルは思う。
彼女の力は、言い換えれば成長する魔法。そんな魔法を周囲にまで拡大して使う理由なんて、ひとつしかない。
彼女はきっと、彼とふたりで、大人になりたかったのだ。
99
終わってみれば、シンプルな話だ。少年と別れたくなかった少女は、彼と今後も会う約束をして。それだけのことで、魔法は解けた。
魔法が解けたあと、損害が元に戻るかは千差万別だ。
効果によって壊されたものや燃やされたものは戻らないことも多い。
だから、今回はどうなのだろうと不安だったのだけれど、どうにか全員の老化は元に戻った。ハルは心底安堵した。正直、少年と少女の話を聞いていた最後のほうは邪魔をしないために指を鳴らすのをやめていたから、賭けだったのだ。
100
椎名を起こして、無事に終わったことを説明した。
「へえ、よくやったな」と偉そうに言われたので、さすがに腹を殴った。
「少年を呼んでるなら最初から言え」
「なんで文句を言われるんだ感謝しろ」
と言い合いになった。ちょうどそのタイミングで、少女のお母さんが起きたらしく、一階から上って来た。
あ、やべ、とふたりで姿勢を正し、経緯を説明をしようとしたが、そんなことよりも彼女は真っ先に、小学生に戻った少女に抱き着いて泣いた。
よかった、本当によかった、と声を上げた。少女は、母のだぼだぼのパジャマを着たまま、疲れたような、気恥ずかしいような苦笑を浮かべていた。
101
お母さんが落ち着いてから、事務的な説明を済ませた。
結論から言って、今回の事件では、少女は罪に問われない。
ステラ警告の、二から四の条項通りだ。
二、解除に協力しなければ罪に問われる場合がある。
三、意図的に魔法を行使すれば罪に問われる場合がある。
四、すべての偽装は罪を重くする場合がある。
解除に協力的で、意図的な行使ではなく、偽装もなかったのだから。
公的な書類上のことはステラ側で引き受けて、一応今後なにかあったときのために連絡先を渡した。現場のデリケートな事後処理、たとえば彼女の父親への説明などのために、また後日うかがうことになるだろうが、ひとまずは少女と母親、少年に任せて家を出ることにした。すっかり日が落ちていたが、不思議と気温はそこまで冷え込んでいなかった。三人ともから何度も頭を下げられ、見送られた。
最後に少女が、不安そうにハルに言った。
「また今度、わたしとモスを食べてくれる?」
ハルは一瞬目を丸くし、すぐに笑顔で返した。
「ぜひ」
102
「いい子たちだったな」
彼女の家からしばらく離れたところで、椎名が言った。
「うん。とても」
とハルは返す。
そうしながら、少女の言葉を頭の中で繰り返していた。
――また今度、わたしとモスを食べてくれる?
私じゃなく、わたし。微かなイントネーションの差だけれど、そこには、かつて彼女にあった大人びた雰囲気のようなものがなかった。
もちろん、勘違いかもしれない。けれど、ひょっとして、と思う。ひょっとして、僕が出会ったときから彼女は魔法にかかっていたのではないか。
僕が話したあの少女と完全に同じ人格は、もうこの世界から消えてしまったんじゃないか?
103
住宅街に街灯は乏しい。椎名が顎を上げて言った。
「見ろ。すごい星だぞ」
ハルも見上げて、呟く。
「わ、ほんとだね」
冬の夜空はとても美しく澄んでいて、砂粒みたいに些細な光まで見える。
この星はどこまでも続いているんだろうなと思えた。だからそれが、最後のひと押しになった。
ハルはジャケットの内ポケットに手を突っ込むと、ギフトラッピングされた包装を取り出した。丁寧に封を開け、小さなコーヒー豆のチャームがついたキーホルダーを手のひらに載せる。子供っぽくない、落ち着いた光沢のものだ。
「なんだそれ」
と椎名が覗き込んでくる。
「別に。なんとなく、かわいいかなと思って」
もう一方の手でスラックスのポケットから車のキーを出し、キーホルダーに付けた。ふたつを重ねて軽く握ると、金属の冷たさが手のひらに伝わった。
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